昭和三八年(一九六三年) | 五五歳 | |||||||||||||||||
二月、妻智世子左肺葉切除、七月退院。九月、第三創作集『ヤゴの分際』を講談社より刊行。一〇月、平野謙、本多秋五と馬籠に旅行。三人での旅行は昭和三年、奈良へキャンプ旅行をして以来三五年ぶり。以後度々三人で旅行。『県民文芸』第二集の審査員、第五集まで続ける。なおこの年、土器・はにわ展を見る。
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昭和三九年(一九六四年) | 五六歳 | |||||||||||||||||
一月、豊田青年文化協会主催の文化講演会で、本多・平野とともに講演。二月、長女章子結婚。「鷹のいる村」を『群像』四月号に発表。四月、南紀田辺の画家原勝四郎死去。七月、本多と志賀直哉訪問。このとき大徳寺の和尚の書「無尽蔵」を返される。八月、『近代文学』が終刊となる。『近代文学』に発表された藤枝静男の作品は、処女作「路」をはじめ「イペリット眼」「家族歴」「龍の昇天と河童の墜落」「空気頭(初稿)」「文平と卓と僕」「痩我慢の説」「犬の血」の八篇であった。藤枝静男は「わたしは『近代文学』によって手足をつけてもらったのち『群像』に引き渡されて世間に出たのである」(「『近代文学賞』のこと他」昭和五二年)と書いている。一〇月、東京オリンピック。「わが先生のひとり」を『群像』一一月号に発表。一一月、『犀』創刊、物心両面にわたり支援する。同月、平野、本多と四国九州旅行。高知女子大学で平野、本多とともに講演。高知へは「聖ヨハネ教会堂」のモデル添田紀三郎の招き。一二月、『浜松百撰』連載の「静男巷談」が八五回をもって終了。なおこの年、『同人雑誌』(清水信編集発行)七月号で「今月の問題作」として藤枝静男研究。『藤枝静男著作集第六卷』参考文献一覧では、この「藤枝静男研究」の掲載誌が『顔』となっている。
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昭和四〇年(一九六五年) | 五七歳 | |||||||||||||||||
三月、本多と志賀直哉訪問。「壜の中の水」を『展望』四月号に、「魁生老人」を『群像』六月号に発表。七月、創作集『壜の中の水』を講談社より刊行。同月、本多と志賀直哉訪問。一〇月、次女本子結婚。一一月、『戦争の文学7』(東都書房)に「イペリット眼」が収録される。なおこの年一月、庄司肇が『日本きゃらばん』第一三号で「静かにあげん盃を─藤枝静男論」(『新戯作者論』昭和四八年南窓社に収録)を書いている。また『浜松百撰』二月号で藤枝静男特集。
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昭和四一年(一九六六年) | 五八歳 | |||||||||||||||||
「硝酸銀」を『群像』二月号に発表。四月、「魁生老人」が『昭和四一年文学選集』(講談社)に収録される。五月、奈良・飛鳥旅行。七月、旧近代文学同人を浜名湖に招待する(弁天島の旅館「浦島」に二泊。昼は浜名湖見物、夜は雑談)。「浜名湖会」のはじまり。「一家団欒」を『群像』九月号に発表。なおこの年、小川国夫が『静岡新聞』一二月二〇日夕刊に「藤枝静男─きびしい自己省察の作家」を書いている。
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昭和四二年(一九六七年) | 五九歳 | |||||||||||||||||
四月、妻智世子聖隷保養園に再入院、左側気管支の硝酸銀腐食療法を受ける。同月、本多と園池公致を訪問。「冬の虹」を『群像』四月号に発表。五月、「一家団欒」が『昭和四二年版文学選集 32 』 ( 講談社 ) に収録される。六月、浜名湖会(二泊。田原の華山文庫、伊良湖岬、浜松城、蜆塚遺跡を見る─このときの八ミリ映像が、平成二〇年に浜松文芸館で開催された「藤枝静男展」で紹介された)。「空気頭」を『群像』八月号に発表。九月、平野、本多と志賀直哉訪問。一〇月、創作集『空気頭』を講談社より刊行、野間文芸賞候補。一〇月二三日、この出版を記念し、平野謙、本多秋五の主唱により、新橋第一ホテルで「藤枝静男君を囲む会」が開かれる。囲む会の案内文「今回、藤枝静男君が『空気頭』を上梓しましたが、これは同君の五冊目の作品集に当ります。二十年かかって五冊の本を編んだことの是非はともかく、二十年目の作品集にいたって『一家団欒』や『空気頭』のように方法上の試みを試みている点は、やはり注目すべきことと申せましょう。その芸術的成敗は二の次として、同君のたえざる芸術的勇猛心を、一夕皆様とともにことほぎたいと思います」。一〇月三一日から五泊六日で平野、本多と北海道旅行、昭和新山などを見る。一二月、静岡県文化奨励賞を受賞。なおこの年、小川国夫が『静岡新聞』一一月二日夕刊に「文学に於ける家の問題─藤枝静男氏の「空気頭」に触れて」を書いている。
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