昭和三八年(一九六三年) 五五歳

二月、妻智世子左肺葉切除、七月退院。九月、第三創作集『ヤゴの分際』を講談社より刊行。一〇月、平野謙、本多秋五と馬籠に旅行。三人での旅行は昭和三年、奈良へキャンプ旅行をして以来三五年ぶり。以後度々三人で旅行。『県民文芸』第二集の審査員、第五集まで続ける。なおこの年、土器・はにわ展を見る。

 

越前永平寺   
静男巷談・連載 62 「浜松百撰」一月号  随筆(

メッキ   
「遠州文学」第一号(一月三〇日)  随筆(単行本未収録 作家藤枝静男が「近代文学」昭和二二年九月号の「路」によって誕生したということに編者は異存がない。しかし、それには必ず前史のようなものがあったと考えていた。平成二〇年に高校時代、大学時代の作品を発見し〔「兄の病気」昭和三年、「思ひ出」昭和八年の項参照〕その予測はあたった。ただ藤枝は、「路」以前のことを具体的に書いても語ってもいない。唯一その気配があるのが、地域の文芸雑誌創刊号に寄せた本随筆である。一部引用する。「私にも熱烈な文学青年の時代はあったし仲間もあったけれど、しかし雑誌を出したいと強く思った頃には、仲間の大部分はもう左翼の実際運動に入っていて、私とは芸術上の立場が正反対になってしまっていたから実現は不可能であった。それに私は医者の学問をしていたから、小説のように全力を要する仕事はできるわけがなかった。ただ好きというだけで自分を慰めるために時たま作文みたいなものを試みるに過ぎなかった」。仲間たちとは、勿論平野謙や本多秋五たちである)

三笠宮殿下   
静男巷談・連載 63 「浜松百撰」二月号  随筆(

スッポン啼く   
静男巷談・連載 64 「浜松百撰」三月号  随筆(「 スッポン 」として ・原題で

選後感   
「浜松市民文芸」第8号(三月三〇日)  選評(単行本未収録)

「ゲルニカ」を見て感あり   
「近代文学」四月号  随筆(  「 ゲルニカ 」と改題改稿して「浜松百撰」七月号。ピカソの「ゲルニカ」の下絵の展覧会とは「ピカソ・ゲルニカ展」国立西洋美術館昭和三七年一一月〜一二月である。大学生であった編者も本展を見た)

千姫   
静男巷談・連載 65 「浜松百撰」四月号  随筆(

新羅人の夢   
静男巷談・連載 66 「浜松百撰」五月号  随筆(「海坂」昭和三九年六月号に転載。

白タクやーい!   
静男巷談・連載 67 「浜松百撰」六月号  随筆(

ゲルニカ   
静男巷談・連載 68 「浜松百撰」七月号  随筆(「『ゲルニカ』を見て感あり」を改題改稿。

テレビ寸感   
静男巷談・連載 69 「浜松百撰」八月号  随筆(

「文学者」の軍隊歴   
「群像」八月号  アンケート(単行本未収録)

創作集『ヤゴの分際』あとがき   
『ヤゴの分際』九月一日  自著あとがき(「今は結核も化学療法や手術の進歩でその人の寿命を左右するというものではなくなっているけれども、しかしそれが自分にとって生涯の敵であったことは忘れることができない」とある。

日記   
静男巷談・連載 70 「浜松百撰」九月号  随筆(  静男巷談 回後に 回も「日記」のタイトル)  

見える・見えない   
静男巷談・連載 71 「浜松百撰」一〇月号  随筆(

日録   
連載1「日本読書新聞」一〇月一四日号  随筆(一〇月一日、二日、三日 単行本未収録)

馬籠で出版を祝う   
「東京新聞」一〇月一五日夕刊  随筆(「 馬籠行き 」として ・原題で『本多秋五是全集別巻一』に収録)

日録   
連載2「日本読書新聞」一〇月二一日号  随筆(一〇月四日、五日、六日  単行本未収録)

日録   
連載3「日本読書新聞」一〇月二八日号  随筆(一〇月一七日に「『犬の血』と『凶徒津田三蔵』は全く同じモチーフから書いた。内心の憤屈に悩みそれから脱出しようと試みて失敗する人間を描いた。背景はそえものであった」とある。また同一八日に「『群像』への投稿原稿二百枚送り返されてくる」とある。そのままボツにしたか書き直したか。書き直したとすればどの作品か。 単行本未収録)

馬籠  
静男巷談・連載 72 「浜松百撰」一一月号  随筆(「海坂」昭和四〇年八月号に転載。  前掲「日録」「馬籠で出版を祝う」参照。平野謙が「三十六年ぶりの旅」で書いている「藤枝静男、本多秋五の両君と二泊三日の小旅行をした。ゆくさきは信州馬籠である。一度三人で旅行をしたいという話は、以前からないわけではなかったが、最近私どもがそれぞれ本を出したのをきっかけに、ようやく実現できたのである。念のために三人の著書の名を書きつけておけば藤枝は『ヤゴの分際』という小説集を、本多は『有効性の上にあるもの』『戦時戦後の先行者たち』という二冊の評論集を、私は『文芸時評』という時評集を出版したのである。三人とも永年にわたって書きためたものを偶然とき同じゅうして本にしたのにすぎないが、ヒイキ目にいえば、私どもの本は意外に評判がよろしい。それで私が提唱して、それぞれの出版記念をかねて馬籠にゆくことにきまったのである」。/以後三人での旅行は次の通り。昭和三九年に四国九州旅行、昭和四二年に北海道旅行、昭和四三年に小豆島旅行、昭和四六年に出雲・大山・松江・志賀直哉氏旧宅旅行、昭和四七年に尾道・倉敷・奈良旅行、昭和五〇年に能登旅行)  

日録   
連載4「日本読書新聞」一一月四日号  随筆(単行本未収録)

高見順『激流』第一部 ─時代の「激流」のなかで  
「週刊読書人」一一月二五日号  書評(単行本未収録)

『三好十郎著作集』第三十四巻   
「サンデー毎日」一二月二五日号   書評(  なお本著作集は全六三巻すべてガリ版印刷)

外国語   
静男巷談・連載 73 「浜松百撰」一二月号  随筆( hoden ホーデン=睾丸、 penis ペーニス=陰茎。 睾丸については「沼と洞穴」昭和四三年の「睾丸を握って」が、「土中の庭」昭和四五年の「なんで女が金玉を磨くだかえ」「師の玉あ食う」が、「田紳有楽」の「玉の皮の両側をきつく掴んで引っぱり伸ばし」が、「みな生きもの みな死にもの」昭和五四年の「フーフェランド医典には金玉なんて痒くなっても掻くな」がある。陰茎については「一家団欒」昭和四一年の「自分の陰茎のなかほどに刃をあてて引いた」が、「空気頭」昭和四二年のヨガ行者のペニス自在術とカラチ大学での脛骨の局部移植術が、「厭離穢土」昭和四四年の「陰茎が勃起して気持ちのいい状態」が、「筆まかせ」昭和四七年の「マラ来たるマラ来たる」が、「雉鳩帰る」昭和五三年の「大きな陰茎を立てて」がある。 




創作集『ヤゴの分際』  
昭和三八年九月一日  講談社刊
帯  文 平野謙
収録作品 雄飛号来る/家族歴/春の水/文平と卓と僕/路/ヤゴの分際
あとがき 藤枝静男

『ヤゴの分際』書評
野間宏「日本読書新聞」九月三〇日号(『野間宏全集第十八巻』昭和四六年筑摩書房収録)・高橋和己「朝日ジャーナル」一〇月六日号(『高橋和己作品集第八巻』昭和四五年河出書房新社収録)・浅見淵「東京新聞」九月二五日夕刊・宗谷信爾「千葉日報」一二月三日号・鶴岡冬一「図書新聞」九月二一日号・久保田正文「未詳」九月(『作家論』収録)・匿名「朝日新聞」九月九日朝刊・匿名「サンデー毎日」九月二九日号・匿名「浜松民報」九月七日号



昭和三九年(一九六四年) 五六歳

一月、豊田青年文化協会主催の文化講演会で、本多・平野とともに講演。二月、長女章子結婚。「鷹のいる村」を『群像』四月号に発表。四月、南紀田辺の画家原勝四郎死去。七月、本多と志賀直哉訪問。このとき大徳寺の和尚の書「無尽蔵」を返される。八月、『近代文学』が終刊となる。『近代文学』に発表された藤枝静男の作品は、処女作「路」をはじめ「イペリット眼」「家族歴」「龍の昇天と河童の墜落」「空気頭(初稿)」「文平と卓と僕」「痩我慢の説」「犬の血」の八篇であった。藤枝静男は「わたしは『近代文学』によって手足をつけてもらったのち『群像』に引き渡されて世間に出たのである」(「『近代文学賞』のこと他」昭和五二年)と書いている。一〇月、東京オリンピック。「わが先生のひとり」を『群像』一一月号に発表。一一月、『犀』創刊、物心両面にわたり支援する。同月、平野、本多と四国九州旅行。高知女子大学で平野、本多とともに講演。高知へは「聖ヨハネ教会堂」のモデル添田紀三郎の招き。一二月、『浜松百撰』連載の「静男巷談」が八五回をもって終了。なおこの年、『同人雑誌』(清水信編集発行)七月号で「今月の問題作」として藤枝静男研究。『藤枝静男著作集第六卷』参考文献一覧では、この「藤枝静男研究」の掲載誌が『顔』となっている。

  呆けて来た   
「近代文学」一月号  随筆(本随筆の冒頭と末尾のモティーフを小説「壜の中の水」の冒頭と末尾に使っている。

正月回顧   
静男巷談・連載 74 「浜松百撰」一月号  随筆(

アイディア以前   
静男巷談・連載 75 「浜松百撰」二月号  随筆(  これまでも地域を愛する度々の発言「新市長」昭和三四年、「年頭苦言」昭和三五年、「プラタナスの木は残った」昭和三六年、「白タクやーい!」昭和三八年、そしてこのあとも「もう一度云います」昭和三九年)

ホテル   
静男巷談・連載 76 「浜松百撰」三月号  随筆(

読後感   
「浜松市民文芸」第9集(昭和三九年三月三〇日)  選評(単行本未収録) 

発表作品について   
「静岡県民文芸」第3集(発行日未詳・発刊のことばの日付が三月になっている) 選評(単行本未収録)  

鷹のいる村   
「群像」四月号  小説(静男巷談「二つの結婚式」昭和三五年がもととなっている。二つの結婚式とは、妻智世子の姪の来宮神社での結婚式と、藤枝静男の姪の静岡の県民会館での結婚式である。本作は藤枝静男の姪夫婦をモデルにした夫婦が主役である。妻の姪のほうは想い出として語られる。/「谷ひとつへだてた丘の上に新築されたコンクリート製の城」とある。静岡市に城はなく、これは昭和三三年に再建された浜松城天守閣がモデルであろう。冒頭「県庁所在地のU市」とあり、静岡のS市でもなく浜松のH市でもないことに留意したい。弥生式住居址が出てくるがそのモデルがどこか編者は特定できていない。ただいろいろなモデルを複合させていることが想像される。/阿部昭との対談「作家の姿勢」昭和四九年のなかに、つぎのようなやりとりがある。阿部「『鷹のいる村』とか、ああいう非常に見事な短篇がありますね。ああいうものを読むと、なんかちょっとうっとりするようなところがあるんですね。読者がうっとりするというのは、また藤枝さんは気に入らないんじゃないかと思いますがね」。藤枝「いま言われた『鷹のいる村』とか、『わが先生のひとり』とか、『魁生老人』とか、それは自分でも好きなのは、僕がとっても好きな人を書いているからです。それは、僕といえども木石ではありません。ああいう人は大好きです。水みたいに流れるものがあるんです。それをすくい取って書いたつもりなんですがね」。なお「壜の中の水」昭和四〇年にも姪夫婦が登場する)
 

時評─平野謙「毎日新聞」三月二八日夕刊(『文藝時評』・『平野謙全集第十一巻』)・山本健吉「東京新聞」三月三一日夕刊(『文藝時評』)・奥野健男「中部日本新聞」四月五日夕刊・中田耕治「週間読書人」三月二三日号・日沼倫太郎「日本読書新聞」三月三〇日号・中井正義「文宴」三月第二号

合評─河上徹太郎・北原武夫・山室静「群像」五月号

収録─創作集『壜の中の水』・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第一巻』 

  小説の嘘   
静男巷談・連載 77 「浜松百撰」四月号  随筆(  いわゆる「私小説家」の作品が現実そのものと見なされる傾向があるが、本随筆はそのことへの警鐘である。「作品の背景」昭和四三年でも「自分の書いた嘘にのめりこんで」云々と書いている。主人公と作者について「ヤゴの分際」昭和三七年の項参照。このことでは、宮内淳子「藤枝静男の遺愛の品々」?板SANPAN第?期代8号平成一六年が、藤枝静男の長女章子さんの言葉「母はたぶん父の小説に描かれているのとは、違う人だと思います」を紹介している。モデルについての本書の立場は「春の水」昭和三七年の項に書いた)

好きな絵   
「アイオロス」第2号(四月一日)  アンケート(「こころの美術館」への回答    「セザンヌの色彩」昭和四九年でもセザンヌの「静物」にふれている。また「ゼンマイ人間」昭和五五年で「『サン・ヴィクトワール山』『自画像』ちいさな『静物』なんかのまえを離れるとき、私はどうしても心で有難うございましたとつぶやいてお辞儀せずには去れない」と書く。/編者に高校時代の思い出がある。初めてのブリヂストン美術館で、セザンヌが三点並んだ壁面を前にして釘付けになった。次の日曜日、とりわけ「自画像」に会うために藤枝から再度上京した。若かったころの私ごとであるが記す)

遺跡発掘と読書協力会   
「読売新聞」四月二四日夕刊(PR欄)  随筆(単行本未収録  藤枝静男の公職歴を以下紹介する。浜松読書文化協会理事昭和二八年六月〜三六年三月、同常任理事昭和三六年四月〜四三年六月、同会長昭和四三年七月〜四九年三月、浜松市社会教育委員昭和三一年四月〜三三年三月、浜松市立図書館協議会委員昭和三三年四月〜五一年三月、同委員長昭和四三年三月〜四九年三月、浜松市よい映画をすすめる会委員昭和三七年一〇月〜四三年三月、浜松市文化財保護審議会委員昭和四九年一一月〜六三年三月。「浜松市民文芸」の選者を一六年間つとめたことや「静男巷談」での市政への注文など、藤枝静男の市民性をうかがうことができる。それは貴重な資質であったと編者は考えている)

もう一度云います   
静男巷談・連載 78 「浜松百撰」五月号  随筆(

描冩と説明 ─今日もわれ大空にあり・他  
「群像」五月号  映画雑感(単行本未収録)

行くつもり   
静男巷談・連載 79 「浜松百撰」六月号  随筆(

季節   
昭和三九年六月執筆・未発表として随筆集『寓目愚談』に発表  随筆(

名倉骨董店   
静男巷談・連載 80 「浜松百撰」七月号  随筆(

一得   
「群像」八月号特集「もっとも印象に残った批評」  随筆(単行本未収録 「ヤゴの分際」昭和三七年の項参照。本文の一部を引用しておいた。なお批評ということでは「仕事中」昭和三二年で志賀直哉の言葉「批評家なんて無用の長物だ」を紹介している)

わが「近代文学」   
「近代文学」八月号(終刊号)  随筆(  本多秋五とフナギラについては「滝とビンズル」昭和五一年の項参照。/書くことに対し「意識的には、自分のなかにそういう欲望の存在は自覚できなかった」と書いている。しかし「メッキ」昭和三八年で「私にも熱烈な文学青年の時代はあった」「雑誌を出したいと強く思った」「自分を慰めるために時たま作文みたいなものを試み」たと書いている。書くことへの欲求は、無意識であったにせよ蓄積されていたと思われる。このことにつき編者に「発見」藤枝文学舎ニュース第六五号がある。/「十枚乃至三十枚の短篇四つを本多に送った」とあるが、本多の当時の藤枝宛の手紙に「小説七篇とは参ったネ」とある。四を七と書き間違えることはないと思われるが。筆名「藤枝静男」については昭和二二年の項参照。/本終刊号編集後記は山室静「創刊当時まだ三十代だった編集同人も、すべて五十代に入り、僕のごときは六十代に近づいた。しかし、まだ一人も欠けいないし、いくらかは元気はなくなったかも知れぬが、老いこむというほどでもない。それぞれこれまでの方向を進めて、いよいよ収穫期の仕事をするかと思う。或いはまたあらためて共同で何かを始めることもあるかも知れない。雑誌はなくなったが、残務整理もあるので当分は荒正人方に近代文学社を置いて、同君に連絡方をお願いしておく。個々の同人にでなく、近代文学社に用事のある方は、そちらまで連絡されたい。では、さようなら。御機嫌よう」。/藤枝静男と「近代文学」の関係を面白く思う。本随筆でも「自分の芸術観は彼等とちがうし、彼等の影響下で書くということは思いもよらぬことだった」と述べている。藤枝は「近代文学」同人になっていない。幅広く同人約三〇名という時期もあり、誘われたことはなかったのか。「近代文学」発表の藤枝作品は年譜にあるように八篇である。平野と本多そして「近代文学」がなかったら、作家藤枝静男はなかったとほぼ言っていい。高校時代からの友情ということもあったろう。藤枝が経済的後援者であったということもあろう。作品に対する評価も勿論あったろう。藤枝は書き「近代文学」は載せた)

ブラ公─ほか   
静男巷談20・連載 81 「浜松百撰」八月号  随筆( 静男巷談 「ブラ公の試験勉強」昭和三四年の内容と矛盾している。「ブラ公の試験勉強」の項参照)

落第免状  
静男巷談・連載 82 「浜松百撰」九月号  随筆(「海坂」昭和四〇年一月号に転載。

本多秋五   
「群像」一〇月号「特集・小説風人物論」  随筆( ・『本多秋五全集別巻一』平成一一年に収録。文中、平野謙がよく口ずさんだという「泥棒の一夜」なる唄は、昭和六年に封切られたフランス映画「掻払いの一夜」の主題歌である。当時この唄は大いに流行ったが、その訳詞は加藤まさをである。ポリドールレコードからレコードが出ている。/また「疎遠の友」のモデル河村直の名がある。禅月大師の名もある。「空気頭」昭和四二年で、「瓜茄」という雑誌に載っていたとしてこの「貫休禅月大師」の詩が引用されている。また「ハラセンのようなしっかりした女優」とある。勿論中野重治夫人の原泉である)

映画の想い出   
静男巷談・連載 83 「浜松百撰」一〇月号  随筆( ・『キネマ文學誌』平成一八年深夜叢書)

わが先生のひとり   
「群像」一一月号  小説(「彼」のモデルであるポンソンビについては静男巷談「ポン先生とビワ先生」昭和三四年、同「紋付き」昭和三七年に書いている。「紋付き」で、ポンソンビに関する二つの資料『本尊美先生の真面目』、『本尊美追憶録』昭和一二年の入手についてふれているが、そのことが本作に取り組むきっかけになったかと思われる。「紋付き」も『本尊美追憶録』にある佐藤芳二郎「先生の日常生活の回顧」の内容に準じていることは前にふれた。『本尊美追憶録』の寄稿者は六八名、多方面にわたっている。新村出、柳田国男の名もみえる。また三枚組の「本尊美君碑建碑記念絵葉書」昭和一四年四月二三日〔本尊美翁記念會〕がある。紋付きの羽織袴に薩摩下駄姿で京都下賀茂の自宅玄関前に立つポンソンビ、西賀茂の西方寺境内の本尊美君碑、そして碑陰拓影の三枚である。袋には「本尊美利茶道翁小傅」が印刷されている。一部引用する。「本尊美茶道翁は明治十一年(西暦一八七八年)一月八日ベズブラ伯爵家の出なるジョン・ポンソンビの嫡男として英京倫敦に生る。生来蒲柳の質なりし為修學に耐へず、中途にしてハロー校を退く。長ずるに及び植民地長官の秘書として身を立て、南支、南洋、印度、南亜の地に住す。香港滞在は前後二回に亙り、任期も亦最も長く、其の間毎夏休暇を利用して屡々日本を訪問し、隈なく史跡を探り、山稜官國幣社等を巡拝す」「大正八年六月官を辭して来朝」「大正八、十、十二年の三カ年に亙り東京成蹊學園にて英語を無報酬にて教授す」「関東大震災の翌年京都移居を決意」「従来、皇室、山稜、國都等に伺ひし翁の關心は必然の道行として神道及神社へと向けられき」「今や翁の研究は愈々その佳境に入らむとするに、不幸病を得て忽薦として長逝す。時に昭和十二年十二月十日なりき。享年六十」。「わが先生のひとり」の「彼」の死は昭和一一年八月である。モデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた。/なお「わが先生のひとり」という題名は、「先生」昭和三四年の伊東先生と並んで、「彼」もまた「先生」のひとりであったという意味であろう)
 

時評─平野謙「毎日新聞」一〇月二八日夕刊(『文藝時評(下)』昭和四四年・『平野謙全集第十一巻』)・林房雄「朝日新聞」一〇月二八日夕刊(『文藝時評』昭和四〇年桃源社)・瀬沼茂樹「東京新聞」一〇月三一日夕刊

収録─創作集『壜の中の水』・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第一巻』 



紳士   
静男巷談・連載 84 「浜松百撰」一一月号  随筆(  紳士といえば「田紳有楽」を連想する。「田紳」とは広辞苑に「田舎紳士」の略とある。藤枝静男がその意味で使ったかは定かでないが)

御退屈様   
静男巷談・連載 85 (最終回)「浜松百撰」一二月号  随筆(「創刊以来まる七年間、ひと月も休まずよくも続けて書いてきたものである。われながら感心するけれど、編集者の根気のいいのにも呆れるばかりであった。勝手気ままなことばかり書いて読者の方にも随分御迷惑をかけたことを心から御詫び申し上げる次第である。さぞ飽き飽きしたことでしょう。さようなら。ながなが御退屈さまでした」と結んでいる。編者は小説家藤枝静男にとって「静男巷談」が有意義であったと考える。 

例年の旅 ─印象深い原爆目撃者の話  
「東京新聞」一二月四日夕刊  随筆(「旅の出来事」と改題して「浜松百撰」昭和四〇年一月号及び「海坂」昭和四一年三月号に転載。さらに「 四国・九州行き 」と改題し 。「旅の出来事」の題に戻して 今   高知での文芸講演会のところで「高校時代の親しい友」は添田紀三郎」である。「添田紀三郎のこと」昭和四六年の項参照)


昭和四〇年(一九六五年) 五七歳

三月、本多と志賀直哉訪問。「壜の中の水」を『展望』四月号に、「魁生老人」を『群像』六月号に発表。七月、創作集『壜の中の水』を講談社より刊行。同月、本多と志賀直哉訪問。一〇月、次女本子結婚。一一月、『戦争の文学7』(東都書房)に「イペリット眼」が収録される。なおこの年一月、庄司肇が『日本きゃらばん』第一三号で「静かにあげん盃を─藤枝静男論」(『新戯作者論』昭和四八年南窓社に収録)を書いている。また『浜松百撰』二月号で藤枝静男特集。

  感想   
「静岡県県民文芸」第4号(発行日未詳・発刊のことばの日付が一月になっている)  選評(単行本未収録) 

落第免状   
「文藝春秋」二月号  随筆(『浜松百撰』昭和三九年九月号の「落第免状」の改稿   玉舟和尚〔大徹明應禅師〕は大徳寺一八五世。志賀からその書を返された話は「虚懐」昭和五七年で再び書いている。本作は藤枝静男の第一随筆集の題名となった)

あやふやな思い出  
「ものくろーむ」第3号(二月一日・ナカムラ画廊)  随筆(  フジタの画を見たことを「あやふやな思い出」として書いているが、「少年時代のこと」昭和四七年では帝展で見たと書いている。このことに間違いはなく、その画は大正一一年の帝国美術院第四回美術展に出品された藤田嗣治「我が畫室の内にて」である。図録を見ると藤田は推薦となっている。藤田の動向は新聞にも大きく取り上げられ話題になった)

注目すべきテーマ   
福岡徹著『未来喪失』(二月一〇日)   帯文(福岡徹は藤枝静男の千葉医大の後輩であり、福岡が「日本きゃらばん」に書いた「新・糞尿潭 付・屎(くそ)を喰らう話」を藤枝は「空気頭」の材料の一つとして使った。また「空気頭」には福岡の本名富安を逆にした「安富」が登場する。単行本未収録)

当麻寺   
「パアゴラ」第 12 号(三月一五日)  随筆(当麻=たいま。「浜松百撰」昭和三六年六月号に発表した「当麻」を改稿改題 

感想   
「浜松市民文芸」第 10 集(三月三〇日)  選評(単行本未収録  このときの応募作の一つが吉良任市「やせた太陽」)

壜の中の水    
「展望」四月号  小説(「作家」一二月号の清水信「藤枝静男の『巷談』─藤枝静男ノート2」は、創作集『壜の中の水』を刊行する際の藤枝静男と清水とのやりとりを紹介している。藤枝は末尾の部分〔オカマが出てくるところ〕を自分では殆ど削りたい気分になっているがと、その削除の可否について電話で清水に意見を求めてきた。清水は読み返して「ケズラヌホウヨシ」と電報を打つ。清水は「『この期に及んでも自分を追いかけてくる現実というやつかもしれなかった』という最後の句など,私としては、どうしても捨てかねた」と、書いている。この末尾の部分とそして冒頭部分は、随筆「呆けてきた」昭和三九年の末尾と冒頭のモティーフをそっくりそのまま使っている。/「私」が背中に壷をくくりつけてヘタバる場面がある。このことでは静男巷談「夢の買物」昭和三七年で、車のトランクに品物をどんどん積み込んでスイスイ戻ってくる知人をうらやんでいる。自衛隊員を見て戦中出会った特攻隊の青年将校を思い出す。「明るい場所」昭和三三年で部下の不祥事でやってきた「殆ど少年に等し」い人間魚雷隊長の「美しい眼」を書いている。/宍戸と古い窯跡を掘りにゆく舞台は初山宝林寺〔浜松市北区細江町中山六五の二〕。黄檗宗であり登場する僧侶は「掌中果」昭和三二年の主人公と同じモデルかも知れない。「若い小説家たち」昭和四四年で立原正秋らを宝林寺に案内したこと。/ダダイスト新吉については「半僧坊」昭和五三年の項参照。姪夫婦は「鷹のいる村」昭和三九年同様、「二つの結婚式」昭和三五年の姪夫婦をモデルにしている。/「私」はステッキとことを為さずに帰る。娘は「あわれむような、誘うような眼をして『おじさん、ねえ、どうする?』と」云う。「春の水」昭和三七年でも同じような場面があった。寺沢は遊郭にいくが、「突然女を離して起きあが」る。「女が『大丈夫よう』と仰向いて笑」う)
 
時評─平野謙「毎日新聞」三月三〇日夕刊(『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・山本健吉「読売新聞」三月三一日夕刊(『文藝時評』)・江藤淳「朝日新聞」三月二六日夕刊(『続文芸時評』昭和四二年新潮社・『全文芸時評(上)』)・佐伯彰一「静岡新聞」三月二五日朝刊・白井浩司「神奈川新聞」三月二八日朝刊・西義之「週間読書人」三月二九日号・磯田光一「図書新聞」三月二七日号・浜田新一「日本読書新聞」三月二二日号

収録─創作集『壜の中の水』・『現代日本文学大系 48 瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第二卷』(昭和五一年講談社)
  深沢七郎著『甲州子守唄』 ─"鋭い腕"に感服  
「週刊読書人」四月二六日  書評(  ・別冊新評「深沢七郎の世界」昭和四九年)

魁生老人   
「群像」六月号  小説(魁生〔かいしょう〕は名字としてある。藤枝が魁生某に実際に出会ったかどうかは別として、その視覚的聴覚的な面白さを魁生に感じていただろう。藤枝静男にはそうしたところがある。/阿部昭との対談「作家の姿勢」昭和四九年で本作について語っている。「鷹のいる村」昭和三九年の項参照。/「たぶん昭和二十四年か五年のことであったと思う」として、丘の高みに焼け残っている図書館の「陶器同好会即売展」で初めて魁生と会う。浜松市立図書館がモデルと思われるが、藤枝は仲間と図りこの市立図書館で昭和二九年に原勝四郎小品展を開催している。/なお魁生が「芸者置屋の箱持ちみたいなものからスパイの手先に」とある。スパイということでは「道具屋の親爺」昭和四九年もスパイであり、「田紳有楽」の参考資料『秘境西域八年の潜行』の著者西川一三もスパイであり、「田紳有楽」に登場する滓見も山村三量もスパイである。/魁生の妻は死んで、死体は解剖され眼球は摘出され角膜銀行に寄付される。「一家団欒」昭和四一年の章もまた内蔵や眼球をみんな寄付して、父祖の墓にたどりつく)
 
時評─平野謙「毎日新聞」五月三一日夕刊(『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・瀬沼茂樹「東京新聞」五月二五日夕刊・西義之「週間読書人」五月三一日号・磯田光一「図書新聞」五月二九日号・浜田新一「日本読書新聞」五月二四日号

収録─創作集『壜の中の水』・日本文芸家協会編『昭和四一年版文藝選集 31 』(昭和四一年講談社)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第一巻』
 

平野のこと   
『日本現代文學全集 97 平野謙・本多秋五・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄集』月報 57 (六月一九日)  随筆(   昭和五〇年に「平野謙のこと─歴史一巡の文学的体験」がある)

創作集『壜の中の水』あとがき   
『壜の中の水』七月一七日  自著あとがき(「しかし一方ではこう考えてもいる。およそ何時でも何にでも常に意見があって、しかもそれが常に新鮮で人をうなずかせるということは、何となく怪しい」とある。 

ふたつの作品について   
「城砦」一九号(一一月・庄司肇『夜のスケッチ』特集) 書評(庄司肇は藤枝の千葉医大の後輩であり「静かにあげん盃を─藤枝静男論」昭和四〇年を書いている。また「空気頭」に庄司教授が登場する。単行本未収録)




創作集『壜の中の水』  
昭和四〇年七月一八日  講談社刊
装  幀 伊藤 積
帯  文 平野 謙
収録作品 わが先生のひとり/鷹のいる村/壜の中の水/掌中果/魁生老人
あとがき 藤枝静男

『壜の中の水』書評
小松伸六「日本経済新聞」八月九日号・進藤純孝「日本読書新聞」八月三〇日号・池田岬「図書新聞」八月七日号・石井仁「犀」第五号(昭和四一年一月)・匿名「朝日新聞」八月二四日朝刊



 

昭和四一年(一九六六年) 五八歳

「硝酸銀」を『群像』二月号に発表。四月、「魁生老人」が『昭和四一年文学選集』(講談社)に収録される。五月、奈良・飛鳥旅行。七月、旧近代文学同人を浜名湖に招待する(弁天島の旅館「浦島」に二泊。昼は浜名湖見物、夜は雑談)。「浜名湖会」のはじまり。「一家団欒」を『群像』九月号に発表。なおこの年、小川国夫が『静岡新聞』一二月二〇日夕刊に「藤枝静男─きびしい自己省察の作家」を書いている。

  勘違い芸術論   
「浜松百撰」一月号・エッセイ珠玉集1  随筆(本随筆は平成一〇年度法政大学文学部入試試験及び平成一二年度日本大学文理学部入試試験に採用されている。実作者の感性については「実作者と鑑賞家」昭和三五年がある。 

若き日の群像 ─落第の記  
「静岡新聞」一月一日  随筆(「 落第仲間 」と改稿改題し  文中にもあるが藤枝静男の落第歴はつぎの通り。高校受験で二年浪人、高校二年進級に失敗して一年落第、大学受験で二年浪人、そして四ヶ月遅れて卒業、合計五年四ヶ月。登場する林道之は第八高等学校理科乙類第一八回卒業〔藤枝は第二〇回卒業〕。「或る年の冬 或る年の夏」で共同生活の場面があり、自筆年譜にも昭和七年に「千葉海岸に住む」とあるが林はその共同生活の仲間ということになる。林については「三度目の勝負」昭和四八年がある。富士宮市長になった勝田あらため山川については、「自然」昭和四七年がある。室田は度々登場する「聖ヨハネ教会堂」のモデル室田〔添田〕紀三郎。ゲーテ氏は不明)

序文  
「文炎」別冊  無題(発行日未詳、単行本未収録。これは浜松文芸館にある藤枝家から寄贈された資料の中にあった。「藤枝静男論─アンケート・藤枝小文・論─"文炎"」と藤枝静男の手でメモ書きされていた。内容は◇アンケート〔十氏〕、◇清水信「藤枝静男研究のこと」、◇藤枝静男「無題」、◇藤枝静男研究第一号〔作家論〕、◇藤枝静男研究第二号〔藤枝論資料〕である。/内容をチェックすると、『藤枝静男著作集第六巻』の参考文献一覧で「藤枝静男研究─『顔』昭和三九年七月刊」とあるものと「藤枝静男研究第一号」が、同じく「藤枝静男研究2─「顔」昭和三九年十月刊」とあるものと「藤枝静男研究第二号」が同一である。雑誌「顔」は未見だが、実は編者の手元に清水信編集発行の「同人雑誌・同人雑誌センター月報」がある。その昭和三九年七月号、十月号に「藤枝静男研究第一号」「同第二号」がある。「顔」と同月刊である。なぜか。「同人雑誌・同人雑誌センター月報」七月号で、全国の同人雑誌から自信作を五百部抜き刷りして送ってもらいそれを巻末に「今月の問題作」として綴じ込みたいしていることに関係がありそうだ。清水は、まだはじめたばかりで反響はなく当方の関係で間に合わせたとも書いている。もし「当方の関係」が雑誌「顔」とするなら、「顔」七月号、十月号の「藤枝静男研究」の抜き刷りを「顔」発行と同時に「同人雑誌=同人雑誌センター月報」に綴じ込んで発行したということであろう。この間の事情を清水氏に確かめたことがあったが、年月の経過もあってはっきりしなかった。庄司肇氏より貴重な「同人雑誌・同人雑誌センター月報」を頂戴し、内容的には全て見ることが出来るのでこうした詮索は止めることにした。ただ『藤枝静男著作集第六巻』参考文献一覧で「別冊」を「顔」昭和三九年七月刊の一部のように扱っているのはあきらかに間違いである。というのは清水信が「藤枝静男研究のこと」のなかで「作家」昭和四〇年一二月号にふれているからである。このこともあって本「別冊」発刊を昭和四一年と考え、藤枝静男の本文をここに一先ず挿入した。「文炎」は名古屋・文炎社発行、日本近代文学館にその創刊号昭和四〇年七月及び二号八月があるがそれ以外手懸かりはない。/作家論のなかの中井正義「劣者の文学」に「『顔』三号のために特にたよりを寄せた本多秋五をして『路』を『彼の最後の作品はこれを大きくしたものになるのではないか』と言わしめた」とあり、それは「アンケート」のことで雑誌「顔」が存在したことを証してもいる。アンケートの初出が「顔」三号だとこれでわかるが未見。この本多の言葉を「悲しいだけ」昭和五二年冒頭で藤枝は引用している。編者は浜松文芸館にあった「別冊」切り抜きで初めてアンケートを眼にすることができた。/前述の「同人雑誌・同人雑誌センター月報」七月号で、清水信は藤枝静男論を「作家研究」の第一巻として発行する準備に取り組んでいると書いている。しかし「藤枝静男研究のこと」でその目論みが失敗し「文炎」別冊という形になってしまったことを詫びている。/藤枝静男の本文もその第一巻の「序文」として清水が依頼したとある。「文炎」別冊では無題であるが、以上の経過から「序文」とした。以下少し長くなるが引用する。「何人もの人が私の作品を批評してくれると聞いて心から感謝した。しかし一方で、そんなはづはないという困惑の念が浮かんだことも確かである。自分のように作品の質も量も乏しい、作家と呼ばれていいかどうかもわからない人間を何故問題にしてくれるのか、正直のところ不可解である。第一不似合いである。/この雑誌に関係して居られる清水信氏とは一度だけ御会いしたことがある。それも『近代文学賞』を同氏が得られたときほんの数語をかわしただけである。他の方については全くなにも知らない。そういう人たちが私に興味を持ってくれるばかりか批評までしてくれるということは、何か買いかぶられているにちがいないと思い重荷を感ずる。恥ずかしさが先にたつ。同時にこんな純粋な好意を一生に一度でも受けられる幸福を心から有難いとも思う。/私が戦後『近代文学』に投稿する以前に書いた習作に就いて何か書くようにとのことだけれど、謙遜ではなくて何もない。高等学校の雑誌に二回か三四十枚前後の感想小品に類する短文を出した覚えはあるがそれ切りである。/昭和のはじめに志賀直哉氏を訪ねて度々お眼にかかり、その縁で滝井孝作氏にもよくお会いしたが、この二人の人柄から云っても小説が話題になることはほとんどなかった。私自身も最初から小説家になる意志は全くなかった。ただ医者になりたての昭和十一年ころ、滝井氏が何と思われたか『小説を書いて見よ』と云って本郷松屋の原稿用紙二三百枚を下さったことがあったが、勿論実行しなかった。滝井氏は平生から『小説というものは自分の体験したありのままを書けばいい。嘘なんか必要ない』と云っておられたが、こういう態度で書く人に見せる小説など私に書けるわけがない。告白すべき自分なんかどこにもなかったのである。この二人の作家から自然に教えられたことは、『謙虚に、しかしたじろがず正面からものを見る』ということと、それと志賀氏が云われた『人間として一生をよく生きる』ということだと思っている。小説を書くことは手段である。/講談本などを読むと、昔どこかの山の中に剣客が住んでいる。木立や岩を相手に百練野修行を積み、ひとたび人間に向かうと一太刀で相手の脳骨を砕く。描写については、もしできればこういう人になりたい」。高等学校の雑誌とあるが、それは第八高等学校校友会雑誌部発行の「校友会雑誌」である(昭和二年、三年の項参照)。それ以外に習作はないと書いているが、昭和八年、九年の項にあるように大学時代に二篇の小説がある。この二篇の小説の一部があきらかに「路」や「硝酸銀」などに使われており、藤枝静男が失念していたとは考えにくい。しかし大学時代の作品について、随筆でも対談でも一切語っていない。「気頭術」昭和三三年に対してと同様、編者にとって謎である)    

硝酸銀   
「群像」二月号  小説(章の父の養蜂のことは「みんな泡」昭和五六年に、「私の父」の養蜂のこととして詳しく描かれている。父が村々をまわって薬を配った帰りに、美しい小石をひろって土産に持ち帰る話は「思ひ出」昭和八年に女給おけいの身の上話としてある。蓮實重彦は「藤枝静男論」で「途中の山道でひろった美しい小石を、妻への土産にもちかえることもあった」を「この感動的な一行」と書く。「章」の叔母が所帯をもった力士のモデルをモデルにした小説に「武蔵川谷右ェ門・ユーカリ・等々」昭和五九年がある。武蔵川谷右ェ門については静男巷談「繰りの糸(牛込亭)」昭和三三年がある。連鎖劇のことがある。「藤枝文学舎ニュース」第二号で八木洋行が「藤枝静男と『連鎖劇』」を書いている。また映画館での連鎖劇とは別に、芝居小屋の女義太夫一座に幼かった藤枝静男が熱をあげたことを藤枝自身から聞いた話として紹介している。そのころは勝見家から結核が遠のいた一時でもあった。父鎮吉は初代下伝馬区長を務め、木戸口で藤枝は「坊ちゃん」と呼ばれ下駄を整えてもらい家に帰ったりした。父との釣りのことは「土中の庭」昭和四五年にある。/蒙求のことがある。「蒙求」〔もうぎゅう〕は七四六年、唐の李瀚が編纂した故事集。偉業を成した人のエピソードとその教訓などが四字を一句とする表題で五九六句掲げられている。日本には平安時代に伝わったとされ、漢文、歴史、故事、教訓を学ぶ入門書として大いに読まれた。たとえば「孫楚漱石」「軻親断機」「李広成蹊」「震畏四知」「孫康映雪」「車胤聚蛍」。「土中の庭」昭和四五年でも「蒙求」。/また「章」の父は習字国定教科書の日高秩父の字を女々しいとして「章」に顔真卿の字を学ばせる。顔真卿は唐の人。唐朝への忠誠を貫き殺される。正統的な王義之の流麗な書法に対し、「顔体」とも呼ばれる力強い独自な書法で後世に大きな影響を与えた。このことで藤枝静男に随筆「文体・文章」昭和五一年、「書をめぐる個人的回想」昭和五六年がある。/「月謝の高いので有名な学校」とあるが、藤枝が最初に籍を置いたのは成蹊実務学校であり、実務学校の授業料は無料であった。その後中学部に籍をうつす。成蹊中学の月謝は高かったかも知ない。成蹊実務学校については「少年時代のこと」昭和四七年が詳しい。年譜の大正九年の項参照。/中学時代の万引きのことは「一家団欒」昭和四一年でも書いている。小学生のとき「帳場の銭函から銅貨を盗みだした卑劣な姿」ということでは、「ヤゴの分際」昭和三七年に「寺沢の脳裏に、かっての自分の恥ずべき姿がありありと蘇った。そのとき彼はあたりの様子をうかがいながら店の銭函から十銭銀貨を盗み出した」「喬はあれと同じ格好をし、これからもするのであろうか」がある。/教頭から借金する場面がある。このことは「或る年の冬 或る年の夏」でも書いている。検挙拘留のことも同様。「魚宗楼」とあるが、藤枝静男の父の実際の実家は「魚安楼」である。またその立地が漁港の町として描かれている。藤枝の隣町の焼津をイメージしてのものか。)
 
時評─平野謙「毎日新聞」一月一九日、二〇日夕刊(『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・山本健吉「読売新聞」二月一日夕刊(『文藝時評』)・本多秋五「東京新聞」二月一日朝刊(『本多秋五全集第十卷』平成八年)・江藤淳「朝日新聞」一月二七日夕刊(『続文芸時評』・『全文芸時評(上)』)・日沼倫太郎「神奈川新聞」一月三〇日朝刊・佐伯彰一「静岡新聞」二月三日朝刊・浜田新一「日本読書新聞」一月三一日号・北原武夫「文芸」三月号(『続文学論集』昭和四八年冬樹社)・島尾敏雄「文学界」三月号(『私の文学遍歴』昭和四一年未来社・『島尾敏雄非小説集第六巻』昭和四八年冬樹社)・池田岬「文宴」三月第五号

合評─中村光夫・武田泰淳・江藤淳「群像」三月号

収録─創作集『空気頭』(昭和四二年講談社)・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第二卷』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・『ふるさと文学館第二十六巻 静岡』(平成六年ぎょうせい)
  カツギ屋   
「交通新聞」二月二〇日号  随筆(「浜松百撰」昭和三五年五月号の「よう来やはったな」を改稿改題   「カツギ屋」を知る人も少なくなってきたかも知れない。戦後の厳しい時代、編者の一家は母の細々とした「カツギ屋」でかろうじて食いつないだ)

百号への言葉   
「浜松百撰」三月号  随筆(単行本未収録)

瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと   
『日本現代文學全集 64 瀧井孝作・尾崎一雄・網野菊』月報 66 (三月一九日)  随筆(単行本未収録)

読後に   
「浜松市民文芸」第 11 集(三月三〇日)  選評(単行本未収録)

選後に   
「静岡県県民文芸」第5集(発行日未詳。発刊のことばの日付が三月になっている)  選評(単行本未収録)

気になる傾向   
「展望」四月号  随筆(  「私は今のいわゆる『早期才能教育』というのが大嫌いである。小学校では『読み書き算盤』この三つの基本的実用的な知識を、平均的頭脳をもった教師によって均等に与えれば沢山である。あとは子供自身にまかせればいい」とある。編者は諸手をあげて、この藤枝の考えに賛同する)

日記   
「風景」七月号  随筆(「 奈良.飛鳥日記 」と改題し

永井龍男著『青梅雨その他』 ─老年というもの  
「朝日ジャーナル」七月一〇日号  書評(  藤枝は「字づらからの連想だと、私などの頭にはなんとなく、おびただしい青梅の実が葉隠れについていて毛虫もはい回っているようなところへ細かいぬか雨が降っている、といったうっとうしい風景が思い浮かんでくる」と書いている。しかし青梅雨(あおつゆ)は新緑に降りそそぐ梅雨の意で、うっとうしいとは反対の葉のみどり色を強調する季語である。しかし確かに、伊藤積造本の本書の装幀は藤枝の言葉通り「黴っぽく濁った」印象である。永井の最初の創作集『絵本』にもふれている。『絵本』は古書目録にときどき登場するが、高額のため編者の手元にまだ来ない)

音楽ならぬごう音   
「朝日新聞」八月一〇日夕刊「私の町から」爛  随筆(単行本未収録 「浜松は楽器をつくっている町ではあろうが、楽器の鳴っている町では少しもない」とある。「浜松近辺」昭和五四年冒頭に「『浜松は楽器製造の街ではあるが音楽の街ではない』という今では一般化した悪口があるが、実はこの巧い形容詞をつけたのは他ならぬ私であったと云うことをここに白状しておく」と書いている。ウナギの養殖場を背景に立つ藤枝静男の写真)

一家団欒    
「群像」九月号  小説(章は内蔵も眼球も「病院において来」る。このことでは「魁生老人」昭和四〇年の魁生の妻も死体解剖され眼球も寄付される。/父、姉、兄、妹、弟の名前と没年と享年は事実通りである。「『ええに、ええに。お前はええ子だっけよ』父は慰めるように云って、彼の首のつけねのところから頭にかけて、ごわごわした厚い掌で撫で」る。この父の仕草は「みんな泡」昭和五六年で繰り返される。/冬の夜の墓地で「自分の陰茎のなかほどに刃をあてて引」く鮮烈な場面がある。このことが藤枝静男に実際あったか編者は知らない。/題名「一家団欒」ということでは、昭和二四年の作品「家族歴」に、「当時の父に『一家団欒笑声新』という句で終わる詩があった」の一節がある。また関係はなかろうが、平野謙『島崎藤村』昭和二二年のあとがきに「それが私の家の一家団欒の最後であった」の一節がある。/「一家団欒」は『文学選集 32 』に収録されるが、そのまえがきで本多秋五は「『硝酸銀』が第一候補にあげられながら、短い『一家団欒』の方を採らざるをえなかった」と書いている。これより先、「一家団欒」が発表されたときの時評でも本多は「作者快調の作品だが、これについてはもっとよく考えたいので、今月の佳作として題名をあげるにとどめる」としている。本多の当時の「一家団欒」に対する評価は、現在の「一家団欒」の評価にくらべ低かった気配がある。/平成一三年、「藤枝宿から文学の風」文学展を期して藤枝市本町の甘清堂から和菓子「一家団欒」が発売された。「故郷藤枝を筆名にした作家藤枝静男は、藤枝の町と家族を描いて多くの傑作を残しています。とりわけ小説『一家団欒』は、肉親たちの眠る場所へ、その団欒のなかへ帰りつく主人公を斬新にえがいて、戦後短篇小説の代表作として高い評価を得ています。藤枝静男の家族への愛と執着とが、独自な表現の力によってこの秀作に結晶しています。当甘清堂の銘菓『一家団欒』は、此の名を戴いての心をこめた一品でございます。藤枝静男が作品に託した熱い思いとともに、味わっていただけますなら幸甚に存じあげます。 店主敬白」編者代筆。/なお平成一二年藤枝市蓮華寺池公園内に藤枝静男文学碑が建立されたが、その碑文に「一家団欒」の一節がその原稿筆跡とともに採用された。「空からの光りともつかぬ、白っぽい光線が湖上に遍満していて、水だけはもう生ぬるい春の水になっていた」。/なお藤枝静男は「宇布見山崎」昭和四五年で「一家団欒」で章が「湖を一直線に横切って自分の父祖の墓に帰っていく、その入り口として想定した水辺」が宇布見山崎〔現浜松市西区雄踏町宇布見・山崎〕であったと語っている。藤枝静男の父祖の墓が藤枝市の岳叟寺にあることを考えれば方角は逆だが、作品は現実の説明ではない。まして本作は時空を越えた作品である。それだからまたこの湖上の描写を、藤枝静男文学碑の立つ蓮華寺池のそれに重ね合わせることも許されるだろう。『高校生のための静岡県文学読本』に文中にある昭和新田開拓記念碑の写真がある。/「ヒヨンドリ」は、「扉の前で、腹に太い〆縄を巻いた裸の青年」「腹の部分を妊婦のように膨らませ」ということから浜松市引佐郡引佐町川名の福満寺薬師堂で毎年一月に行われる「川名のひよんどり」をモデルにしていると思われる。ひよんどりは火踊りが訛って伝えられたとされる。同じく引佐町渋川でも同じ時期「寺野のひよんどり」が行われる。ともに国の重要無形文化財。藤枝静男の郷里藤枝には、五穀豊穣と子孫繁栄を願う祭り「田遊び」がある)
 
時評─平野謙「毎日新聞」九月一日夕刊(『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・本多秋五「東京新聞」八月三〇日朝刊(『本多秋五全集第十巻』)・江藤淳「朝日新聞」八月二六日夕刊(『続文芸時評』・『全文芸時評(上)』)・進藤純孝「サンケイ新聞」八月二五日夕刊・日沼倫太郎「神奈川新聞」八月二八日朝刊・月村敏行「日本読書新聞」八月二九日号(『批評の原理』昭和四九年国文社)

合評─北原武夫・佐伯彰一・野間宏「群像」一〇月号

収録─日本文藝家協会編『昭和四二年版文學選集 32 』(昭和四二年講談社)・『日本短篇文学全集 19 志賀直哉・網野菊・藤枝静男』・創作集『空気頭』・創作集『欣求浄土』(昭和四五年講談社)・講談社文庫『空気頭・欣求浄土』(昭和四八年講談社)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第六卷』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・講談社文庫『現代短篇名作選8』(昭和五五年講談社)・集英社文庫『実験小説名作選』(昭和五五年集英社)・講談社文芸文庫『悲しいだけ・欣求浄土』(昭和六三年講談社)・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』(平成元年小学館)・講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見 10 表現の冒険』(平成一四年講談社) なお『高校生のための「静岡県文学読本」』(昭和六三年三月二五日、静岡県出版文化会刊)に部分収録。本書は平成三年に改訂、さらに平成九年に書名も『改訂静岡県文学読本』とし改訂二版。また「一家団欒」は第一回しずおか世界翻訳コンクール(静岡県主催)の課題作品の一つに選ばれた。その『優秀作品集』(平成九年一〇月発行)に英訳・仏訳入賞作と併掲。



寺沢の自動車   
「心」九月号  小説(本誌では小説として発表された。「 田沢の自動車 」と改稿改題、随筆として  藤枝静男は「私小説家の不平」昭和四三年で書いている。「小説の形式などどうだっていいではないか。あるアメリカ人が『志賀直哉の小説は、小説でなくて随筆だ』といったそうであるが、自分の国の規格を相手かまわず押しつけるのは、お国がらとは言え、ずいぶん傲慢な話で、私は『それが創作であるか随筆であるかの別は、それを書くときの精神の緊張とそれを書く態度できまる』という意味の志賀氏の言葉の方がはるかに芸術家らしくて調子が高いと思っている」。/藤枝はまた「私がもっとも影響を受けた小説─城の崎にて」昭和四六年で「世界が狭いとかドラマがないとか、だから小説ではなくただの随筆に過ぎないなどと云う人には、始めから縁のない作品である。従って通訳あがりのアメリカ評論家や、メートル法で小説を批評したり書いたりする人には読む資格がないと考えている」と書く。藤枝はまた「山川草木」昭和四七年で書く。「何故こんな愚にもつかぬことを書いて小説の名を冠するかというと、齋田捨川という愚な批評家を不愉快にするためである」。齋田捨川とは「あるアメリカ人」サイデンステッカーのもじりである。このことでは吉行淳之介が、自分へのサイデンステッカーの批判について取材されたとき「さいざんすか」と軽く受け流したと云う話がある。/藤枝はまた「文学的近況」昭和五一年─谷崎潤一郎賞受賞の言葉─の冒頭で書く。「それが小説であるかないかは作者のモティーフ表現への意欲と緊張の度合いによって決まる、という意味の志賀直哉の教えに従って私は私小説を書いてきた。今度それによって名誉ある賞を受けたことは何よりも嬉しいことである」。/ここで、サイデンステッカー『現代日本作家論』昭和三九年新潮社から志賀直哉についてのサイデンステッカーの言い分を抄出しておく。藤枝静男を考える上で大切と思われるので、いささか長い引用になるが眼を通していただきたい。「小説にあってわれわれの求めるものは、生きた人間の姿─生き生きと動き、変化する人間像である」「われわれの寄せる期待という点からみると、志賀の作品は果たしてどうか?ほとんど完全な失敗作といわざるを得ない」「志賀の自伝的な作品のうちに─野心的な力作においても『小説の神様』とよばれるにふさわしい小説的な達成の証しはついに見出し得ない。」「『焚火』や『城の崎にて』が小説として立派なものとは思われない。人物描写も劇的な発展もまるで欠けているからである」「『私小説』や『心境小説』の代表的な書き手は、本質的に叙情的才能の持主であり、小説に手を染めるべきではなかったと言われるならば、私も大体において、賛成せざるを得ない。近代文学の大きな欠陥の一つは、余りに小説が─いや自ら小説と称する作品が余りにのさばっているところにある」「志賀直哉が『小説家』でないのは『伊勢物語』の作者と同様であり、業平のように志賀もまた叙情家に他ならない」「志賀直哉はすぐれた文体家であり、疑いもなく立派な人物であるが、こうした事実は、小説家としての地位の高さとは大して関係がない」「彼は小説家から当然期待される劇的な才能の欠如を示している」「しかし」「極めて見事な叙情的瞬間の把握が認められるし、こうした把握の認められる作品は、人物描写や劇的な対決によって生きた人間を感じさせる小説としてよりは『歌物語』風な混合形式として受けとられるべきである」「志賀には、一瞬の閃きによって、真にすぐれた日本の近代作家の一人たることを実証している、ささやかな作品が幾つかある」「不当な礼賛は斥け、小説家としての失敗は、はっきり認め、小説家以外のものとしての成功は、それとして認めてみると、結局われわれは志賀直哉に小説家としての最高の賛辞を捧げざるを得ず、また彼のこの才能のこの一面が余りに僅かな作品によってしか発揮されておらぬことに如何の意を示さざるを得なくなる」「結局のところ志賀は、多くの『小説の神様』の一人だと認めてもよい」「しばしば空疎な自負に堕することはあっても、志賀は日本の現代文学中、真に不朽性に値する短篇、四、五篇を物し得たのである」。サイデンステッカーのいう四、五篇とは「范の犯罪」「剃刀」「清兵衛と瓢箪」「真鶴」である。編者の感想の一つは、サイデンステッカーが「小説の神様」と志賀が呼ばれていることにイヤにこだわっていると云うことである。勿論これは志賀の責任ではない)

異郷の友   
「南北」一〇月号  随筆(「浜松百撰」昭和三六年四月号のものを改稿。単行本未収録)

明治村   
「犀」第七号(秋号一〇月)  随筆(  明治村の正門は第八高等学校の正門を移築したもの。「宮城拝観」の部分は、静男巷談「皇居拝観」昭和三五年の一部改稿。「天皇個人の戦争責任については、今だに冷静になれない。やはり天皇は戦犯裁判が終わったとき、自らの意志で退位を強行された方がよかった」と書き、一方で「天皇は人間になったはずだ。人間以下にあつかわれて大人しくしている必要はない」と書く。藤枝の天皇に対する発言には続きがある。昭和五〇年、「文芸時評」に書く。「天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先に来た。いかに『作られたから』と言って、あれで人間であるとは言えぬ」。藤枝は天皇に対し、人間としての責任を問い、人間として退位すべきであったと考え、人間以下に扱われたら文句を言えといい、そして人間ではないと怒るのである。そして「在らざるにあらず」昭和五一年で「人間の恥から見事に自由になっている天皇」と書く。「文芸時評」昭和五〇年の項参照)

あれこれ   
「群像」一〇月号  随筆(「 書きはじめた頃 」と改題し

良明会第四回展を迎えて   
浜松・ナカムラ画廊「第四回良明会」案内状(一一月一四日)  随筆(前ナカムラ画廊主中村良七郎を偲ぶ展覧会。中村は「方寸会」のメンバーであった。静男巷談「六十一回目の雑文」昭和三七年、「曾宮氏のこと」昭和四九年で中村にふれている。またナカムラ画廊の機関誌「ものくろーむ」に「あやふやな思い出」昭和四〇年、「原勝四郎氏のこと」昭和四八年を寄稿している。 単行本未収録)



昭和四二年(一九六七年) 五九歳

四月、妻智世子聖隷保養園に再入院、左側気管支の硝酸銀腐食療法を受ける。同月、本多と園池公致を訪問。「冬の虹」を『群像』四月号に発表。五月、「一家団欒」が『昭和四二年版文学選集 32 』 ( 講談社 ) に収録される。六月、浜名湖会(二泊。田原の華山文庫、伊良湖岬、浜松城、蜆塚遺跡を見る─このときの八ミリ映像が、平成二〇年に浜松文芸館で開催された「藤枝静男展」で紹介された)。「空気頭」を『群像』八月号に発表。九月、平野、本多と志賀直哉訪問。一〇月、創作集『空気頭』を講談社より刊行、野間文芸賞候補。一〇月二三日、この出版を記念し、平野謙、本多秋五の主唱により、新橋第一ホテルで「藤枝静男君を囲む会」が開かれる。囲む会の案内文「今回、藤枝静男君が『空気頭』を上梓しましたが、これは同君の五冊目の作品集に当ります。二十年かかって五冊の本を編んだことの是非はともかく、二十年目の作品集にいたって『一家団欒』や『空気頭』のように方法上の試みを試みている点は、やはり注目すべきことと申せましょう。その芸術的成敗は二の次として、同君のたえざる芸術的勇猛心を、一夕皆様とともにことほぎたいと思います」。一〇月三一日から五泊六日で平野、本多と北海道旅行、昭和新山などを見る。一二月、静岡県文化奨励賞を受賞。なおこの年、小川国夫が『静岡新聞』一一月二日夕刊に「文学に於ける家の問題─藤枝静男氏の「空気頭」に触れて」を書いている。

  耕治人著『懐胎』 ─善意に満ちた人間の生描く  
「日本読書新聞」一月二三日号  書評(   無罪で留置場に放り込まれ虐待された主人公が『係員たちはみな善良な気がした』と書いていることに疑問を呈している。高校時代の自身の体験にてらしての評言であろう。藤枝と耕では『本多秋五全集』年譜の昭和五〇年三月一八日に「藤枝静男と真鶴の中川一政を訪ねる。耕治人も居合わせる」とある。また書評『一條の光』昭和四四年がある)

志賀直哉─人と作品   
角川文庫『暗夜行路』二月二〇日  評論(本書はそのままに版を重ねているが、角川文庫『清兵衛と瓢箪』(昭和二九年三月一〇日初版)が『城の崎にて』と昭和四三年一月三〇日に改版改題された際そちらにも阿川弘之の作品解説とともに転載された〔写真の差し替えあり〕。同書はその後さらに『城の崎にて・小僧の神様』と改題。単行本未収録)

選後に   
「浜松市民文芸」第 12 集(三月三一日)  選評(単行本未収録)

冬の虹   
「群像」四月号  小説(登場する父はいうまでもない、藤枝静男の父鎮吉がモデルである。編者は鎮吉が書き記したものを見る機会があった。本文中に「二つ折り半紙を綴じ合わせて作られ」「全頁をびっしり埋めつくし」「やや右肩あがりの蠅頭の毛筆文字の群」とあるそのままに、頁をめくってもめくっても毛筆細字で埋め尽くされた紙面に圧倒された。本作は親族のことを語って「硝酸銀」昭和四一年の続編の趣きがある。なお父の妹いちが拾われたダルマ宿のダルマとは、下等な売春婦の異称。モデルについての本書の立場は「春の水」の項に書いた)
 
時評─平野謙「毎日新聞」四月一日夕刊(『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・大岡昇平「朝日新聞」三月二九日夕刊(『大岡昇平全集第十三巻』昭和四九年中央公論社)・山本健吉「読売新聞」三月二九日夕刊(『文藝時評』)・久保田正文「京都新聞」三月二八日朝刊・日沼倫太郎「神奈川新聞」四月二日朝刊

合評─山本健吉・佐多稲子・遠藤周作「群像」五月号

収録─創作集『空気頭』・日本文藝家協会編『昭和四三年版文學選集 33 』(昭和四三年講談社)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第二卷』
  同級会   
「浜松医師会会報」四月号  随筆(筆名は勝見次郎 

あなたにとってタバコとはなにか   
「浜松百撰」六月号  アンケート(単行本未収録)

古典的文体の美   
小川国夫著『アポロンの島』七月一〇日(審美社)付録  評論(単行本未収録。短いので全文引用する。「まず驚嘆するのは、その文体の古典的とも云うべき重さと美しさ、そしてそれと共存する精神の痛みと不安である。このふたつのものの結合が、作品に不思議な新しさと生々しさを附与している。血を流しているキリストみたいなものの姿、作者の胸中にわだかまるブヨブヨした不定形な重油の塊のようなものが、まだ明確な形を与えられないままに、しかしまごうかたなき肉眼をもって見すえられている」)

横好き (1)入門─志賀直哉氏から体得  
「中日新聞」七月二七日夕刊(連載企画・一題十話)  随筆(各回の見出しをはぶき「横好き」として 。以下「横好き」の収録については略。なお「藤枝静男と李朝民画展」平成一〇年浜松文芸館で藤枝愛蔵の李朝陶器が八点展示された)

横好き (2)日吉館ほか─焦点の無い見聞生活  
「中日新聞」七月二八日夕刊  随筆(ここに出てくる中学の同級生は「疎遠の友」のモデル河村直である。「疎遠の友」昭和四八年の項参照)

横好き (3)安もの買い─雨に風情そえる常滑壷  「中日新聞」七月三一日夕刊  随筆(「壜の中の水」昭和四〇年に主人公が苦労して大壷を背中に背負う場面がある。また壷では「壷あれこれ」昭和五七年があり、雨で肌を濡らし庭に並べられた壺の写真が添えられている。なお交友のあった上司海雲は壷を愛し「壷法師」と呼ばれた)   

空気頭   
「群像」八月号  小説(本作は○印で四つに分けられている。冒頭から「始めから下らない間違いであった」で終わる前書き的部分、「昭和四十一年十月十日、いま私の妻は」から「「『夫婦は二世か』と思った」で終わる部分(一部とする)、「松を見て、戻りの電車」から「昇天してみせる決心でおります」で終わる部分(二部とする)、「昭和四十二年四月二十四日(月曜)晴暖」から終わりまでの部分(三部とする)の四つである。講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』平成二年では理由は不明だが、前書き的部分と一部とを分ける○印が略された。/「空気頭」の創作の経緯については「空気頭(初稿)」、「気頭術」の項参照。補足すれば、「空気人形」「空気頭(初稿)」では外部から射込まれ脳髄に入り込んだ「黴菌 Apaticoccus と Logococcus 」の存在、「気頭術」では男性の劣性としての「遺残細胞X1とX2」の存在、そしてこの「空気頭」では遺伝性の「起炎菌」の存在ということになる。なお人工気頭術、糞尿からの妙薬、身体離脱空中遊泳のモティーフは「空気人形」から本作まで一貫している。以上のことは二部に関してのことである。本作と「空気人形」・「空気頭(初稿)」・「気頭術」との根本的な違いは三部構成ということである。すなわち「空気人形」・「空気頭(初稿)」・「気頭術」を原型とした二部を、一部と三部で挟み込んだのが本作である。前書き的部分について云えば、「風景小説」昭和四八年でも冒頭で瀧井孝作の見解を引用している。本作の瀧井の言葉を引用した「私」の「私小説論」は一筋縄ではいかない。人によってその解釈は異なるだろう。/一部と二部、三部を見比べたとき、対応する部分に気付く。例えば、一部の「空気の泡がかすかな音をたててU字管のなかをくぐり抜けながら、妻の肋骨と肺の間に送り込まれて行く。妻の内部に巣食う病巣が、それによって、眼に見える形で片隅に押しのけられていくように私には思われるのであった」は、二部の「プツープツーと云ったふうな、水中の間隔を潜り抜ける気泡の音が、呟くようにゆるやかに響きはじめました。脳底深く刺しこまれたゾンデの先から押し出される生鮮な空気に圧迫されて、視神経繊維束を侵蝕している腐敗細胞が剥がれ、そこに形成された空洞によって更に距てられて縮んで行きつつあるのです」と対応している。また一部の取り調べの場面で「イヤ」といった次の瞬間、穏やかに見えていた係官に便所の壁に激しくぶつけられる場面は、三部のベトナム戦争で、小綺麗でやさしそうな男がベトコンを残虐に殺害するのと対応している。/一部で「寝る前にウィスキーを角罎四分の一ほどラッパ飲みすることもある」とあるが、昭和五五年に広告文「コップ一杯のウィスキー」がある。/また妻についての年月は、藤枝静男の妻智世子の事実にそっている。「昭和十三年に私と結婚」、「昭和一六年の末に二番目の娘を実家に帰って生んだ」、「昭和二九年三月、気胸をはじめて十一年」、「昭和三十六年の冬であった。妻はT大学外科に入院し」、「昭和三十八年の二月、妻は近くのM療養所に入院して肺葉切除術を受けた」がそうである。 fremd フレムト=馴染みのない。/「私は何の傷も受けはしなかった。私は海軍病院という特等席に座って戦争をくぐりぬけた」とある。「明るい場所」昭和三三年に「私の居たのは明るい場所だったろうか。反省してやはりそうだったと思う」の独白がある。/妻の手術が終わったとき「私」は「とうとう」を繰り返す。このことに蓮見重彦が「藤枝静男論」でふれている。「一家団欒」昭和四一年の「章」もまた、累代の墓にたどりついたとき「とうとう来た。とうとう来た」と思う。/「今日は妻の死んだときのことを楽しく空想した」の「二十一字」を読書会で取り上げられ、婦人たちに総掛かりで攻撃されたときのことを「運命」昭和五一年で書いている。また富士正晴との対談「実作者と文芸時評」でもそのことにふれている。/榧の巨木を「私」は訪ねる。記述から浜北市本沢合にある「北浜の大カヤノキ」と思われる。幹周六・八m、樹高二四・五m。/検挙拘留のことは「或る年の冬 或る年の夏」などで書いている。妻が「わたしはこのお墓に入るのは嫌です」という。このことは「雛祭り」「悲しいだけ」昭和五二年で再び書いている。/以下二部について。「現に私はこの血管硬化によると考えられる両鼻側四分の一半盲の一例を経験して雑誌に発表した」とある。「空気頭(初稿)」の論文名は「上半盲ヲ伴ナエル流行性・限局性・反復交替性・脳炎(並ニソノ治療)」であった。藤枝静男〔勝見次郎〕に昭和一六年頃とみられる論文「両眼内下方四分ノ一半盲症ノ一例」がある。上半盲という症状を藤枝が発想したについては、この自身の論文のほかに「眼は心の窓か」に書かれている経験もあったと思われる。「空気人形」昭和二六年の項参照。/個体の弱点「ロークス・ミノーリス」は藤枝の造語と思われるが、その発想源は不明。独和辞典を引くと Lokus =〔口語〕トイレとあるが。/A子、B子が登場するが藤枝静男の女性の風貌描写については「痩我慢の説」昭和三〇年の項参照。/工廠医務部でのことは「明るい場所」昭和三三年と同じ体験をモチーフにしている。/レオナルド・ダ・ヴィンチの「人類交合断面図」が出てくるが「一日」昭和二三年及び「春の水」昭和三七年にもレオナルドのことがある。「田紳有楽」の項参照。/また創作集『空気頭』 のあとがきで「文献、友人たちの書いたもの、云ったこと、教えてくれたことをほとんど生のままで貼り合わせて、逸脱を承知で書いた。ひとつひとつのことがらには根拠があるから、全体としての実在感はある。このために力をかしてくれた福岡徹、佐々木基一、中山恒明、新島迪夫の諸兄に感謝している」と書いている。この「諸兄」については、すぐれた藤枝静男論である宮内淳子『藤枝静男論 タンタルスの小説』(平成一一年)が詳しい。その第三章「でたらめに書くということ─空気頭」を読んでいただきたい。ここでも、簡単にふれておきたい。空中遊泳は佐々木基一の「停れる時の合間に」であり、実験用の糞尿集めと糞尿からの妙薬精製は福岡徹の「『新・糞尿潭』付・屎を喰う話」〔『鬼の手』収録〕であり、パキスタンでのインポテンツの手術は中山恒明の「向こう脛中央へ行く」〔『患者の顔医者の顔』収録〕である。このパキスタンでの手術がつくり話でないことに編者は吃驚した。なお「向こう脛中央へ行く」とは向こう脛の骨をペニスに移植するの意であろう。新島迪夫は千葉医科大学昭和九年卒の解剖学の権威である。没後刊行された『人体のしくみ』昭和四八年南山堂がある。「空気頭」との関わりは未詳。もしかしたらヨガの行者のデモンストレーションは、新島が見聞して藤枝に語って聞かせたものかも知れない。/名前について言えば、文中の山中明高教授は中山恒明からであり、安富君は福岡徹の本名富安徹太郎〔千葉大学東洋医学研究会卒業生名簿に名前がある。「先生」昭和三四年の項参照〕からであり、庄司教授とキャバレー・キャラバンは「静かにあげん盃を─藤枝静男論」昭和四〇年を書き同人誌「日本きゃらばん」の主宰者庄司肇からであろう。以上佐々木以外は、藤枝静男と同じ千葉医大卒業の医師である。/また先生の古医書蒐集の手伝いを「命ぜられていた」とある。藤枝静男の千葉医大時代の指導教官伊東教授は医学史研究のために古医書類を蒐集、千葉大学東洋医学研究会の初代会長であり、また『ススルタ大医典』の翻訳者でもあった。「同好者の三人が加わったりしますと」とある。その一人土生〔はぶ〕敦に著書『享文文藝集』昭和一三年がある。「科學と藝術」の章があり、劇の所作をとくに眼の使い方について「科学的」に解説している。「一議に及んだ直後に瞳孔」云々があり、藤枝はこの一風変わった著書を読んでいたか。瞳孔云々ということでは、「接吻」昭和四五年で主人公は興奮すると「瞳孔が開いて瞼裂が拡大」することを指摘される。この土生敦は伊東教授が主となって開催の千葉医大講演会の講師もつとめている。土生については「美女と外人と疑獄」昭和三三年に、瞳孔を極端に広げる毒薬アトロピンと土生の曽祖父のこと。またもう一人の佐藤院長であるが佐倉の順天堂医院の四代目院長佐藤恒二から寄贈された資料は、伊東の蒐した資料と並んで千葉大学の東洋医学古書コレクションで重要な位置を占めている。/中国竜門石窟の奇妙な三文字「穢?穢」が出てくる。この三文字は「空気頭(初稿)」では釈迦が苦行僧から聞いた言葉であり、唐の「千金方」にも記載されており、日本に伝来して古医書「医心方」に「汚医汚」とある語句であるとしている。この「空気頭」ではこれとは違い、「戦後すぐに発行された或る美術雑誌のなかから見つけて記憶していた」語句とされる。その記事は戦争中石窟を調査した美術史家が「石窟の壁に中国古薬方が刻み遺さている事実を指摘」したもので、彼の持ち帰った拓影のなかに三文字「穢?穢」があったとしている。この三文字の種本を把握できていない。藤枝が読んでいたかと思われる雑誌「座右宝」全冊(一五号で終刊)を調べたがなかった。また「彼の云う専門家とは、もちろん医家ではなくて書家をさしていた」とあることから、雑誌「墨美」に少しあたったりもしたが今のところ手懸かりなし。「戦争中に調査した美術史家が」ということから、該当すると思われる研究書水野清一・長廣敏雄著『龍門石窟の研究(東方文化研究報告第一六冊)』座右寳刊行会昭和一六年刊を調べてみたりもした。。大きく分厚く重い本である。冒頭三つ折り見開きの龍門西山の全景写真は見応えがある。その付録に膨大な「龍門石刻およびその拓影がある。漢文は分からぬままに、その「七、薬方洞」の「薬方」の部分をチェックした。糞とか尿といった文字は盛んに出てくるが、「穢?穢」の三文字は何回見直しても見当たらなかった。藤枝の創作過程を知る上で三文字の種本をいずれ見つけたい。/次にでてくる「本草綱目」は明朝の李時診が著した薬学書、全五二巻。その人部は人間の髪、耳くそ、爪、歯、垢、月経、血、唾、汗、陰毛、頭蓋骨などを材料にした薬を解説した章である。そのなかに人の糞尿を材料にした薬の記述がある。「人中黄」の製法については、ほぼ「空気頭」にある通り。「金汁」の製法は、「空気頭」の記述のようには簡易でない。採った汁はそのままでは駄目で、瓶に入れ人の通る土の下に何年か埋めてから取り出す。清きこと泉水のごとし、全然臭くないとある。効用については両者とも解熱・解毒の記述はみえるが、強精については管見にして編者は見ていない。/B子に「自衛隊相手の小さなトリスバーを買いあたえました」とある。自衛隊では「自衛隊と女たち」昭和三五年単行本未収録。トリスでは前出の「コップ一杯のウイスキー」昭和五五年がある。/なお最後に近く登場する雑誌「瓜茄(かか)」の記事も、張り合わせた一つである。この「瓜茄」の記事、董其昌の体験の個所は、「空気人形」、「空気頭(初稿)」、「気頭術」そしてこの「群像」の「空気頭」と一貫して採用されている。わかったことを枝葉末節のきらいがあるが記す。引用しているのは、「瓜茄」第五号〔昭和一四年二月二五日発行、発行所は瓜茄研究所、発売所は京都・山本文堂と大阪・美術新論画廊と東京農商株式会社瓜茄発売部、著者兼発行者は奥村伊九良〕である。その「南頓北漸」の章を見て行くと引用している部分は「瓜茄」の記事そのままと云っていい。ただこの「群像」の「空気頭」が他の「空気頭(初稿)」などと違うのは五台山発掘の石棺とか、王維の瀑布図とか、貫休禅月大師云々が追加されていることである。このことで言えば、「瓜茄」が書いているのは山西省の五台山発掘ではなく河南省発掘の石棺である。また瀑布図ではなく「江山雪霽圖」である〔二号で智積院の伝王維「瀧の圖」にふれているので、そこから思いついたか〕。また貫休禅月大師については三号の小さな圖版の説明にただ「五代 貫休 羅漢圖の部分(御物)」とあるだけで一号から五号まで「瓜茄」の本文中に貫休のことは一切ない。勿論「空気頭」にある貫休の詩は載っていない。作品中引用している「おそろしく自信に満ちた詩」は「新詩一千首。古錦初下機。除月與鬼神。別未有人知。子期去不返。浩浩良可悲。不知天地間。知者復是誰」の前半である。貫休の文献として小林太一郎著『禪月大師の生涯と藝術』昭和二二年創元社がある。もしかして藤枝静男はこの書に眼を通していたかも知れない。「新詩一千首」もその緒言に引用されている。貫休は唐末の禅僧、詩人、画家、夢幻的な詩と特異な羅漢像で知られているが、同書によれば貫休の本領は詩にあり画は余技であったという。詩は多く現存しているが、画については真筆と見なされるものは殆どない。御物十六羅漢画も「禪月『様』十六羅漢画」とされている。なお「本多秋五」昭和三九年のなかでほんの一行ではあるが、禅月大師にふれている。雑誌「瓜茄」については勝呂奏氏よりコピーをいただく。その後編者も入手。また勝呂氏に「奏」第一五号平成一九年一二月発表の示唆に富む評論「藤枝静男─二つの『空気頭』」がある。参考にさせていただいた。/藤枝が作品で扱っている資料についての本書の立場は「春の水」昭和三七年の項に書いた。また「厭離穢土」昭和四四年の項を参照されたい。/○で区切られた「三部」は、「昭和四十二年四月二十四日(月曜)晴暖」と書き始められる。食べた物を書き連ねることは藤枝のよくやることである。市長選挙事務所を「私」は訪ねる。昭和四二年とあるから、平山博三が浜松市長三期目をめざす選挙のときがモティーフであろう。平山が初当選したときのことは、静男巷談「新市長」昭和三四年で書いている。/外国の草や木が「本当に自分が日本で見ているものと同じであろうかと疑った」とある。「ヨーロッパ寓目」昭和四六年でも「私がこんど外国に行った第一の理由は、そこに生えている草や木が本当に日本のそれと同じかと確かめたかったからだ」と書いている。/蛇足だが本作では看護婦A子と看護婦からホステスになったB子が登場。「田紳有楽」では出目金C子とバー・ユーカリのホステスP子が登場する。「欣求浄土」ではテレビタレントの××○○子。「厭離穢土」ではA子)
 
時評─平野謙「毎日新聞」七月二七日、二八日夕刊(『空気頭』昭和四二年付録・『文藝時評(下)』・『平野謙全集第十一巻』)・山本健吉「読売新聞」七月二九日夕刊(『空気頭』付録・『文藝時評』)・大岡昇平「朝日新聞」七月二九日夕刊(『空気頭』付録・『大岡昇平全集第十三巻』)・篠田一士「東京新聞」八月一日夕刊(『空気頭』付録)・進藤純孝「サンケイ新聞」七月二七日夕刊・久保田正文「静岡新聞」七月二七日夕刊・日沼倫太郎「中国新聞」七月二七日朝刊・渡辺広士「週間読書人」七月三一日号・桶谷秀昭「日本読書新聞」七月三一日号(『空気頭』付録・『凝視と彷徨(下)』昭和四六年冬樹社)

合評─佐々木基一・安岡章太郎・寺田透「群像」九月号

収録─創作集『空気頭』・『現代日本文学大系 48 瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』・講談社文庫『空気頭・欣求浄土』・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』・『藤枝静男著作集第六卷』・『筑摩現代文学大系 74 埴谷雄高・藤枝静男集』・『昭和文学全集 17 椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順二・堀田善衛・寺田透』・講談社文芸文庫『田紳有楽・空気頭』(平成二年講談社) なお「高校生のための 静岡の文学読本」(昭和六二年四月一〇日、高校国語科静岡県郷土文学教材研究会編)に「空気頭」部分収録(仮綴本)。本書がもととなって昭和六三年に『高校生のための「静岡県文学読本」』が刊行されたが、「一家団欒」に差し替えられている。
 

戦後ということ    
「浜松百撰」八月号  随筆(  「私は殺し合いは、たとえ勝っても、そのこと自体が悪いことなのだからやめろ、と言う他ない」と書いている。藤枝静男はまた昭和五七年、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に関するアンケートに答えている。「私は一対一の殺しあいでも人殺しには絶対反対ですから、核装備など論外で留保の余地はありません」)

横好き (4)入庵由来─"古色"にだまされぬ  
「中日新聞」八月一日夕刊  随筆

横好き (5)俵壷ほか─のぼせすぎて盲目に  
「中日新聞」八月二日夕刊  随筆(木彫如来座像については「偽仏真仏」昭和五〇年)

横好き (6)掘り出しもの─話だけで顔面が紅潮  
「中日新聞」八月三日夕刊  随筆(三ヶ日町のT氏を訪ねる。このT氏は「眠りをさます東海の名園」昭和五四年に『濱名史論』の著者として紹介されている高橋佑吉であろう)

横好き (7)書のこと─善し悪しは"ひと目" 
「中日新聞」八月四日夕刊  随筆

横好き (8)なぞの鰐口─延文二年の銘に驚く  
「中日新聞」八月七日夕刊  随筆(摩訶耶寺周辺のことは、このあと「昨日今日」「千頭峰城址」昭和五一年、「眠りをさます東海の名園」昭和五四年などで書いている)

横好き (9)首供養─仏の腹中に仏の頭部  
「中日新聞」八月八日夕刊  随筆

横好き ( 10 )わが弟子─にくまれ口たたく仲(完)  
「中日新聞」八月九日夕刊  随筆

島尾敏雄作品集第五巻 ─形あるものの苦しさに絶望  
「日本読書新聞」九月一一日号  書評(

小川国夫著『アポロンの島』 ─鮮明なイメージで─全作品に流れている憂然・気  
「週刊読書人」九月一八日号  書評(「アポロンの島─小川国夫」として 、「アポロンの島」として  「つまり絵にたとえると、遠近なしで、遠い山も脚下の草むらも同一の光をはねかえしている。それをつなぐ、作者にとっては恐らく興味のうすい説明部分が放棄されている。このことは作者がこれから少し長いものを書こうとする場合には弱点になるおそれがある」と藤枝は書く。一方小川国夫は「空気頭」を評して「或る超現実的なカラクリをもうけて、われわれが便宜的に色欲、罪障、解脱などとよぶ観念に対する、実存的見解を描き出そうとする。この部分に対する解説と批判は、別の機会にゆずりたいと思う。今は、読者は直接それを未読してほしい。それはヒエロニムス・ボッシュの絵に一脈通ずるところのある、独自の空気の中の光景である」静岡新聞昭和四二年一一月二日と書く。両者が互いに、相手の作品を絵に例えているところが面白い。付け加えるなら大庭みな子は『藤枝静男著作集第三巻』月報で藤枝の作品を評し、「遠近法が逆転し、時の地平のくずれる意識の中で自在に飛び交う筆の行方を、息をつめてわたしはみまもっている」と書いている)

創作集『空気頭』あとがき   
『空気頭』一〇月一二日  自著あとがき(「しかし自分にとってはムキになってやるだけの必然性はあったので、そのときは精神の緊張と衝迫にかられて書いたのである。従って、何かを試みたという満足感だけは残っている」とある。

有吉佐和子著『華岡青洲の妻』 ─妻の座への疑問  
「朝日ジャーナル」一一月一二日号(書評 単行本未収録。平成二一年三月にこの書評のあることがわかった)


歳末   
「朝日新聞」一二月五日夕刊  随筆(  大学浪人のころ一人で赤城山に登ったことを書いているが、「或る年の冬」の寺沢も一人で赤城山に登る)


創作集『空気頭』  
昭和四二年一〇月一二日  講談社刊
装  幀 柴本義彦
付  録 文芸時評集(平野謙・山本健吉・大岡昇平・篠田一士)
帯  文 大岡昇平(文芸時評抜粋)初版のみ
収録作品 硝酸銀/一家団欒/冬の虹/空気頭
あとがき 藤枝静男
本書で昭和四二年芸術選奨文部大臣賞を受賞。また昭和四二年度野間文芸賞最終選考作品五作の一。ちなみにこの時の受賞は舟橋聖一『好きな女の胸飾り』、中村光夫『贋の偶像』

『空気頭』書評
安岡章太郎「朝日ジャーナル」一二月三日号(『感性の骨格』昭和四五年講談社)・浅見淵「サンケイ新聞」一一月二日夕刊・野村尚吾「サンデー毎日」一一月二六日号・富士正晴「日本読書新聞」一一月二〇日号・八木義徳「新刊ニュース」一二月一日号・平野謙「週刊朝日」一一月一〇日号(『新刊時評(下)』昭和五〇年河出書房新社)・上田三四二「週間読書人」一二月四日号・森川達也「図書新聞」一一月二五日号・匿名「朝日新聞」一一月一四日号・匿名「週刊文春」一一月一三日号



 

↑TOP

NEXT→