昭和三三年(一九五八年) |
五〇歳 |
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「気頭術」を『医家芸術』二月号に、「阿井さん」を『新日本文学』三月号に発表。四月、小川国夫が丹羽正とともに初めて藤枝静男を訪れる。六月、八高創立五〇周年記念祭に参加。「明るい場所」を『群像』八月号に発表。九月、「阿井さん」が『昭和三三年度前期創作代表選集』(講談社)に収録される。
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昭和三四年(一九五九年) |
五一歳 |
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「うじ虫」を『文學界』三月号に発表。一二月二〇日、狛江に新築した家に平野謙、荒正人、山室静、本多秋五、高杉一郎を招き新居開きと荒の全快祝いを兼ねて忘年会を開く。
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昭和三五年(一九六〇年) | 五二歳 | |||||||||||||
匿名で年間五万円を近代文学社に提供することを申し出る。近代文学社はそれを基金として「近代文学賞」を設定し副賞とした。「近代文学賞」は、『近代文学』の終刊によって昭和三九年の第五回をもって終了。第一回受賞者は吉本隆明。六月二二日の授賞式、懇親会に出席。以後毎回出席する。なお第二回受賞者は立原正秋と草部和子、第三回受賞者は清水信、第四回受賞者は辻邦生、第五回受賞者は中田耕治と龍野咲人(近代文学賞については「『近代文学賞』のこと他」昭和五二年が埴谷雄高の銓衡経緯の紹介も含めて詳しい)。なおこの年五月、新安保条約案が衆議院で強行採決、六月参議院での議決がないまま条約案は自然成立。アイゼンハワー大統領訪日中止、岸内閣総辞職。
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昭和三六年(一九六一年) | 五三歳 | |||||||||||||
一月、瀧井孝作来浜(このときのことを静男巷談「電気バリカン」)。「凶徒津田三蔵」を『群像』二月号に発表。五月、創作集『凶徒津田三蔵』を講談社より刊行。『近代文学』六・七月号で座談会「本多秋五─その仕事と人間」。六月一八日、荒正人の新築の書斎で本多、平野、埴谷、山室、佐々木が出席して荒の新居披露と『凶徒津田三蔵』出版祝い。平野の中国旅行の歓送会も兼ねる。一一月、本多を伴い志賀直哉訪問。本多が志賀と会うのは約一六年ぶり。一二月、妻智世子千葉医科大学外科に入院、気管支鏡検査。なおこの年、清水信が『近代文学』一〇月号に「藤枝静男論─当世文人気質 」を書いている。清水はこの連載で昭和三七年に第三回近代文学賞を受賞。
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昭和三七年(一九六二年) | 五四歳 | |||||||||||||
二月、妻智世子胸郭整形手術で肋骨五本切除、三月退院。「春の水」を < 群像 > 四月号に発表。八月、藤枝の土地の裏庭に母ぬいと妹きくのための家を新築、表通りに面した土地は売却。九月、「凶徒津田三蔵」が『昭和三七年版文學選集』 ( 講談社 ) に収録される。「ヤゴの分際」を『群像』一二月号に発表。一二月、藤枝市立病院に入院中の小川国夫を見舞う。小川は、平成一一年の講演でこのときのことを語っている。藤枝は「酒をやめることはない。治ったらまた飲めばいい。そしてまた、小説を書けばいい」と小川を励ました。なおこの年、ピカソ・ゲルニカ展を見る。
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