昭和二八年(一九五三年) 四五歳

「文平と卓と僕」を『近代文学』一月号に発表。なお本号に『近代文学』同人名簿が掲載されている。以下参考までに氏名を列記する。荒正人、安倍公房、青山光二、梅崎春生、龜島貞夫、加藤周一、久保田正文、斎藤正直、佐々木基一、島尾敏雄、椎名麟三、關根弘、高橋幸雄、高橋義孝、武田泰淳、寺田透、中村眞一郎、中田耕治、野間宏、花田清輝、原通久、埴谷雄高、日高六郎、平野謙、平田次三郎、船山馨、福永武彦、本多秋五、三島由紀夫、山室静。『近代文学』は昭和二二年、二三年と同人拡大を行い、同人ほぼ三〇名の時期を一〇年にわたって続けた。しかし昭和三一年財政的理由から拡大同人を解散、旧同人六名に復している(小田切秀雄は脱退。藤枝静男は終始同人にはならなかった)。

  文平と卓と僕   
「近代文学」一月号  小説(「路」昭和二二年の項で書いたが、藤枝が本多に送った作品のうち「鼠」「赤鬼」がその後どうなったか定かではない。「鼠」がその後「明るい場所」になったといささかの理由から編者は憶測している。「赤鬼」は「これを最初に発表するといふのは,賛成だ」と本多も評価した作品である。未発表のままにしたとは考えにくい。「路」以降の作品を眺めて、題名と本多の評から、「文平と卓と僕」がこの「赤鬼」をもとにした作品かも知れないと編者は考えている。「題材がとてもよくて、それを少し急ぎ足で全角度的に汲みつくしてゐないので勿体ない」という本多の評言も、話が次から次と展開する本作に当てはまるようにも思えるのだが。しかしそれを裏付けるような文言が、その後の本多の手紙を見てもない。本多の昭和二八年一月二六日の葉書、「昨日平野がきて『文平と卓と僕』をほめてゐた。小説になってゐると。僕はハラハラして純粋鑑賞を妨げられるせいもあるが、あの硬派文体より『秋』風の軟派文体をとる。そして自然描写のあるものがいい。こんどもなくはないが」。「秋」という作品も藤枝は書いたのだろうか。「路」のところでふれたが最初七篇送った可能性もある。また昭和三八年一〇月二八日「日録」で「『群像』への投稿原稿二百枚送り返されてくる」ともある。没になった作品は他にもあるだろう。/なお「近代文学」本号に高杉一郎が「再会」、島尾敏雄が「月暈」を発表している)

収録─創作集『犬の血』・創作集『ヤゴの分際』・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第一巻』




瀧井さんと原勝四郎氏    
「南苑集」第五号(一月)  随筆(未見、「原勝四郎展図録」〔一九七三年〕の目良湛一郎「原先生とその周辺」に一部が引用されている。編者は浜松の古本屋で、十把一絡げの売り物のなかから「南苑集」第一号から第四号を見つけた。残念ながら第五号はなかった。しかし第三号の「これでもいい」を思いがけず発見したのであった。第五号については、発行者の平野多賀治の遺族に尋ねても不明であり図書館にもなかった。なにしろA5版四頁の小誌である。出てこないだろう。 単行本未収録)

娘の犬   
「近代文学」三月号  随筆(  静男巷談「わが家の犬」昭和三五年は同じモティーフ。冒頭次女の日記が引用されている。編者は平成二〇年のある懇親会で、某氏より小学校のころ一年下に菅原本子という活発な女の子がいて、男子と取っ組み合いのケンカをしたという話を聞いた)

田宮寅彦『鷺』   
「近代文学」一〇月号  書評(最初の書評。単行本未収録。 なお本号に小川国夫が「東海のほとり」を発表している。「東海のほとり」は小川作品の初めての雑誌登場であった。小川は東大に在学のまま、一〇月一五日にフランス留学に旅立っている。「東海のほとり」の元々の題名は「小暮皓一」であったが、本多秋五の判断で改題された。/本号巻末の囲みに「近代文学」事務局からの連絡がある。「一、集団讀者…責任者を決め、その人に配布、集金をやっていただきます。毎號六〇圓均一。送金當方負擔。代金は雜誌が届いたあとで送っていただく。二、個人讀者…毎號六〇圓均一、送料當方負擔ですが、前金半年分の申し込みをしていただきます。三、(一)の場合、講演會、座談會などの催しを持たれる際は、講師の斡旋その他の御便宜を積極的にお計りします」。当時の様子がうかがえる)


昭和二九年(一九五四年) 四六歳

二月、方寸会の仲間と図り「原勝四郎小品展」を浜松市立図書館で開催する。これにあわせて瀧井孝作来浜。なお「原勝四郎氏のこと」昭和四八年で藤枝は昭和二十八年の開催と書いているが、原勝四郎年譜やその他の資料から昭和二九年が正しい。思い違いであろう。



古大津絵 ─ 瀧井孝作   
「近代文学」八月号  随筆(「 瀧井孝作氏のこと 」と改題し  滝井の風貌についての記述を読みながら、編者はなんとなく「田紳有楽」の妙見を想ってしまった。瀧井については座談会「志賀さんの話を聴く」昭和三二年、「瀧井さん、網野さん、尾崎さんのこと」昭和四一年、「或る姿勢」昭和四三年、「わたしの敬愛する文章」昭和四七年、「創作合評」昭和四八年、「俳人仲間─瀧井孝作」昭和四八年、「志賀さんの生活など─瀧井孝作」昭和四九年、「瀧井さん」昭和五三年、「瀧井さんのこと」「瀧井さんのこと」昭和六〇年など)

志賀直哉と夢   
「近代文学」一〇月号  随筆( ・『日本文学研究大成 志賀直哉』平成四年図書刊行会)

実作者と鑑賞家   
「海坂」一一月号  随筆 ( 藤枝静男は同じ主題で三回書いている。この「海坂」のものと「浜松百撰」昭和三三年六月号の「作るひと・味わうひと」、そして「城砦」昭和三五年九月号の「実作者と鑑賞家」である。この「海坂」の特徴はU氏〔内田六郎〕について多く触れていることである。単行本未収録)


昭和三〇年(一九五五年) 四七歳

「痩我慢の説」を『近代文学』一一月号に発表。第三四回(昭和三〇年下半期)芥川賞候補作となる。このときの受賞作は石原慎太郎「太陽の季節」。選者は石川達三、井上靖、中村光夫、丹羽文雄、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、川端康成、舟橋聖一であり、佐藤と瀧井は「痩我慢の説」を強く推した。なおこの年五月、志賀直哉渋谷区常磐松〔現在の渋谷区東一ノ一二ノ一〇〕に家を新築して移る。



痩我慢の説    
「近代文学」一一月号  小説(富士正晴と藤枝の対談「実作者と文芸時評」昭和五一年で「藤枝 だけど女は書けないっていうことだもの、僕は。 富士 そんなことないですよ。ちゃんと書けてますよ」といった会話がある。女性の風貌をどう藤枝が書いているか、そのことに限っていくつか拾ってみたい。まず本作の冒頭ホナミの風貌が語られる。「丈は五尺二寸、痩形というよりは実際に痩せていて、胸も薄く、何となくギスギスして一向若い娘らしくない。顔は小さく、底にやや蒼黒い色調を帯びた冴えない顔色をしているが、睫毛の長い雙の眼に、一寸ハッとするほど純粋な強い光がある。鼻筋が通り、唇の両端がこころもち反り気味にあがって、一体に一つ一つの道具の輪郭が明らかである。肥るべき性質の身体が、粗食と欠食の家に伸び悩んで、一朝時を得たら爆発的に艶っぽくなる芽を、満身の皮下に蔵している」。「文平と卓と僕」昭和二九年の照子「四肢は撓やかに伸び、ちょうど脂肪のつき際でもうなまめかしいと云ってよい身体つきであった」。「春の水」昭和三七年のサヨ子「五尺あるかなしかの、眼の大きい、二重あごの少女であった。首が丸く、蒼みがかって緊張した皮膚を持っていた」。「鷹のいる村」昭和三九年の姪「親ゆずりの強い近眼で、厚いロイド眼鏡が鼻先にずり落ちるのを気にして人さし指の先でそれをチョイチョイと突つく癖がある。しかし生来頑健で褐色の体は伸び伸びとヴォリュームに満ち、私はよく知らないが所謂グラマーというのはこういうのを云うのだろうと思っている」。「壜の中の水」昭和四〇年の女「事後の、ややたかぶった眼つきをしていた。散瞳し、黒眼が濡れて光っていた。平たく角ばった青白い顔が、何となく無知な印象を与えた」。「空気頭」昭和四二年のA「身長は一五二糎、体重は四三瓩、血液はA型、手足が小作りでふっくらと丸味のある身体つきをしていました。眉が濃く、大きく見開いた黒眼には、いつも青っぽい翳りが遊弋しているように見えました。乳白色の湿った皮膚に覆われた丸い首が、前方に膨らんでくる胸にはまりこんでいました。何かに熱中して凝視たり考えこんだりしていると、知らず知らずに斜視になり、身体つきが全く無抵抗で色情的になって、思わず掴みかかりたくなるような女でした」。/さて本作に戻る。「そらまた先生だ。君等は先生先生言いすぎるよ」「僕なんか一人だ。手を取って医術を教えてくれたI先生だけだ」─「I先生」というのは千葉医大で世話になった伊東教授である。静男巷談「先生」昭和三四年、「酋長の娘」同年の項参照。/「近代文学」本号は百号記念特大号である。埴谷雄高が「『近代文学』創刊まで」を書いている)

時評─平野謙「毎日新聞」昭和三一年二月二二日朝刊(『文藝時評(上)』昭和四四年河出書房新社・『平野謙全集第七巻』昭和五〇年新潮社)・梅崎春生「東京新聞」昭和三一年一月三〇日朝刊 

収録─創作集『犬の血』・日本文藝家協会編『昭和三〇年後期創作代表選集17』 ( 昭和三一年講談社 ) ・『日本短篇文学全集 19 志賀直哉・網野菊・藤枝静男』(昭和四三年筑摩書房)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第一巻』

 

 

 

昭和三一年(一九五六年) 四八歳

五月、「痩我慢の説」が日本文芸家協会編『昭和三〇年度後期創作代表選集』(講談社)に収録される。六月、志賀直哉が里見?、小津安二郎とともに来浜。「犬の血」を『近代文学』一二月号に発表、第三六回(昭和三一年度下半期)芥川賞候補作となる。このときは受賞作なし。結局藤枝静男は「イペリット眼」、「痩我慢の説」そしてこの「犬の血」と三回芥川賞候補となったが受賞には至らなかった。このことについて「落第坊主」昭和三四年に書いている。『浜松市民文芸』(第一集))創作部門の選者となり、以後第一六集(昭和四六年)まで続ける。



奈良の野猿   
「風報」六月号  随筆( ・『風報随筆』昭和三四年─本書は限定七五〇部、江戸川乱歩、井伏鱒二、中川一政、志賀直哉、徳川夢声など一二七名の随筆を収録)

今朝の泥棒    
「海坂」八月号  随筆(後出「泥棒三題」の三度に続く四度目の泥棒である。 ・ちくま文庫『犯罪百話・昭和編』昭和六三年)

瑠璃抄の感想及びアンケート   
「海坂」八月号  感想(単行本未収録)

泥棒三題   
「海坂」一〇月号  随筆(改稿して ・ちくま文庫『犯罪百話 昭和編』。出来事としては「今朝の泥棒」が一番新しい出来事だが、それ以前の三度をまとめて書いている。その三度目の泥棒は昭和三〇年一〇月。同月の「週刊朝日」一〇月一六日号に「強盗と評論家─小林秀雄氏、二人組と深夜問答」なる記事がある。藤枝静男は「泥棒三題」+「今朝の泥棒」の四度だが、小林は五度目とある。そういう時代であった。)  

犬の血   
「近代文学」一二月号  小説(主人公「沢木信義」については「奈良の一日」昭和一二年の項参照。/友人が他人の細君が飲んだすぐあとその水口に口をつけて飲む場面、自分の精液を顕微鏡でみる場面については「二つの短篇」昭和二三年の項参照。/生体解剖、生体実験については旧日本陸軍の秘匿名満州第七三一部隊、正式名は関東軍防疫給水部本部〔部隊長石井四郎の名をとり敗戦後石井部隊と呼ばれる〕が行ったとされるが、東京裁判でも裁かれず公の場で明らかにはされていない。石井は戦後新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経営、昭和三四年喉頭癌で死去、六七歳。/俳誌「みづうみ」昭和二五年八月号の編集後記に「目下快心の御作「犬血」を執筆中で、近々の内に戴く事が出来ると思ひます」とある。後記の通りであれば「犬の血」は当初「みづうみ」のために執筆され、しかも昭和二五年にはほぼ形を成していた事になる。しかしそれから六年を経て本誌に発表となった。/藤枝静男宛の瀧井孝作の葉書〔昭和三二年一月二二日付〕がある。「僕も一人では力及ばず〔芥川賞は〕『無し』と極りました。仕方がないので、僕は候補作品として〔「犬の血」を〕文春に掲載したらどうだと云って、誤植訂正の切抜を渡して帰りました。多分掲載するでせう。又候補だけでしたが、皆は目がないか、見解の相違か、僕の不徳か、とにかくこんなわけでした」。瀧井の尽力もあって「犬の血」は「文藝春秋」昭和三二年三月号に転載される)

時評─平野謙「毎日新聞」昭和三二年二月一九日朝刊(『文藝時評(上)』・『平野謙全集第七巻』昭和五〇年・正宗白鳥「読売新聞」昭和三二年二月一五日朝刊(『正宗白鳥全集第八巻』昭和四三年新潮社)・臼井吉見「朝日新聞」昭和三二年二月一八日朝刊・堀田善衛「東京新聞」昭和三二年三月二日夕刊(『堀田善衛全集第十四巻』昭和五〇年筑摩書房)・高橋義孝「産経新聞」昭和三二年二月二五日夕刊・原田義人「日本読書新聞」昭和三二年二月二五日号・匿名「東京中日新聞」昭和三二年二月一九日夕刊

収録─創作集『犬の血』・日本文藝家協会編『昭和三二年度前期創作選集 20 』(昭和三二年講談社)・『日本の文学第八十巻名作集4』(昭和四五年中央公論社)・『藤枝静男著作集第四卷』



昭和三二年(一九五七年) 四九歳

「犬の血」が『文藝春秋』三月号に転載される。六月、瀧井孝作の尽力により処女創作集『犬の血』を文藝春秋社より刊行(このときのことを藤枝は『滝井孝作全集第四卷』月報「瀧井さん」昭和五三年に書いている)。近代文学同人が荒正人宅に集まり刊行を祝う。「雄飛号来る」を『文藝春秋』七月号に、「掌中果」を『群像』七月号に発表。八月「素直」第三集で座談会「志賀さんの話を聴く」。「異物」を『心』一〇月号に発表。一〇月、「犬の血」が『昭和三二年度前期創作代表選集』(講談社)に収録される。『浜松百撰』が一二月に創刊され寄稿。「静男巷談」として昭和三九年一二月号まで八五回の連載となる。なお浜松文芸館に瀧井孝作の藤枝静男宛の便りが一一六通あり、昭和三二年が二二通と一番多い。『犬の血』刊行に心を砕く様子がうかがえる。しかし瀧井の便りは、昭和四三年五月を最後にしている。この年一〇月、小川国夫が『アポロンの島』(私家版)刊行。

  これでもいい   
「風報」三月号  随筆 ( 「南苑集」第三号の「これでもいい」に加筆。本随筆の一部を「日記」昭和三六年の項に引用しておいた。 単行本未収録 )

三月八日   
「浜松クラブだより」第五二号(三月八日)  随筆(筆名は勝見次郎。「 大正十一年三月八日 」と加筆改題し   文中永井荷風の日記「椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。病衰の老人日々庭に出て老樹の病を治せむとす。同病自ら相憐れむの致すところか」を引用して「例の江戸文人癖で、たった四十四になったばかりの癖に老残をかこっているのが馬鹿々々しい」「八十近い今でもピンピンしているんだから可笑しなものだ」と書いている。荷風は四四歳にしてだが、藤枝は「壜の中の水」昭和四〇年で主人公に「年は五十七であるから、もう断じて青年ではない。このごろ私は老人ぶることに決めた」と云わせている。また荷風の日記に森鴎外見舞の記事がある。/このことでは「三田文学」平成一二年夏季号対談「『三田文学名作選』のこと」に、慶応義塾が文科を改革する際森鴎外に相談、鴎外が荷風を教授に推薦したこと。また「三田文学」は荷風を主幹にして始まったが、鴎外は「三田文学」を自作発表の場に活用していたとある。同対談は『名作選』に収録の藤枝作品「二つの短篇」も取り上げている。対談出席者の発言に、「三田文学」は慶応出身者を偏重してこなかったとある。このことは編者の随筆「名前考」を、平成一四年夏季号に掲載したことでも証明されたと云えようか) 

選評   
「浜松市民文芸」第二集 (三月三〇日)  選評(筆名は勝見次郎。単行本未収録)

追記/藤枝静男の「浜松市民文芸」選評が全て『風紋のアンソロジー』浜松文芸館刊(平成二一年三月)に収録された。本選評も含めて次の選評である。選後評(第四集)昭和三四年、読後感(第七集)昭和三七年、選後評(第八集)昭和三八年、読後感(第九集)昭和三九年、感想(第一〇集)昭和四〇年、読後に(第一一集)昭和四一年、選後に(第一二集)昭和四二年、読後感(第一三集)昭和四三年、感想(第一四集)昭和四四年、感想(第一五集)昭和四五年。

創作集『犬の血』あとがき   
『犬の血』六月一〇日  自著あとがき(「小説を書こうとする時、私を躊躇させ何となく書きにくい気分に誘うのは、〔医者である〕自分は全体としての人間を表現し得ないかも知れぬという危惧の念である」とある。

雄飛号来る   
「文芸春秋」七月号  小説(文中の教会〔日本メソジスト藤枝教会〕については、冊子『藤枝教會九十年記念誌』日本キリスト教団藤枝教會編がある。その年表の大正二年に「新田東作牧師着任。教会堂、牧師館を新築し、献堂式を挙げる」とある。また大正六年に「福島重義牧師着任」とある。本作では同じ秋田牧師で通しているが、年表に従えば藤枝が小学校四年のときに新田牧師から福島牧師にかわっている。「少年時代のこと」昭和四七年には「小学校六年生になったころから家の隣りにあるメソジスト教会の牧師の福島さんのところへ夜になるとナショナルリーダーを習いにやらされた」とある。そして成蹊実務学校進学について「その頃から福島さんの世話で話がきまっていたのであろうか」と続けている。また「追憶」昭和四九年には「ウイルキンの野郎」と外人牧師と喧嘩する福島牧師を書いている。東京生まれ羽織袴姿というのも福島牧師である。しかし前述の年表が正しければ、雄飛号飛来の大正五年にはまだ福島牧師は藤枝に着任していない。モデルについての編者の立場は「春の水」の項に書いた。モデルの詮索は本質的なことではない。それでも云うなら「雄飛号来たる」の秋田牧師のモデルは、福島牧師の記憶に重点をおき、牧師館建設のころの新田牧師とをあわせてのものであろう。藤枝の父鎮吉と牧師の関係では、同じく「追憶」に「私の父ともよく喧嘩した」とあり、また『藤枝静男書誌』昭和六一年序文に「私の藤枝の生家の隣はメソヂスト教会で、日曜日になるとオルガン伴奏の賛美歌合唱が何度となく繰返され神父さんのお祈りの声が洩れてくるので『ヤソヤソ』と云ってそれを嫌う父は、私たち供がそこの男の子と遊んだり年一回のクリスマスに何かもらってきたりするとすぐ取り上げて捨ててしまうのであった」とある。従って成蹊実務学校への進学が父鎮吉と福島牧師とのどんな関係で決定されたのか、今になってはわからないが興味をそそられる。このことでは「少年時代のこと」の項参照。/秋田さんの刀に刻んだ詩のことがある。作者は柳宗元、古文復興に勤め文章家として唐宋八大家の一人に数えられる。詩の題名は「登柳州蛾山」。南方僻地の赴任地で望郷の思いを詠じた詩。井伏鱒二は次のように訳した。「アキノオンタケココノツドキニ ヒトリノボレバハテナキオモイ ワシノ在所ハドコダカミエヌ イヌヰノカナタハヒダノヤマ」─『厄除け詩集』〔昭和五二年の改訂版より「厄よけ」を「厄除け」とする。講談社文芸文庫版あり。なお藤枝静男・平岡篤頼対談「嘘とまことの美感」昭和五五年で井伏の「貸間あり」を取り上げている「貸間あり」は小林秀雄も高く評価した。映画化された「貸間あり」は駄作だったようだが〕。/「雄飛号」はドイツから輸入したパルセバール飛行船が不時着大破し、それを大改装したもの。大正五年一月、所澤から大阪への長距離飛行を試み無事大阪練兵場に着陸したもののエンジン故障で再び飛び立つことが出来ず、分解されて貨物列車で所澤に運ばれその後飛行することはなかった。兵器としては既に時代遅れであった。藤枝が見たのは大阪への飛行の途時である。全長八五メートル。乗組員四〜一二人。「雄飛号来る」では「春であったか秋であったか、私は忘れてしまったが」として「晴れた日の午近い頃」その姿を藤枝上空に現す。当時の新聞記事は「一月二一日」午後「五時二十分藤枝を通過せり」と記している。また船長も「益田少佐」となっている。このことでは「書をめぐる個人的回想」昭和五六年の項参照。藤枝静男の小学校時代の同級生石部正蔵は「次郎さんと蓮華寺池で眺めた」と語っている─ビデオインタビュー「藤枝静男を語る」平成一三年。石部では「或る年の冬 或る年の夏」に「小学同級生の建具屋の石部が届けてくれた水槽」、また「同級会」昭和四二年に「この会をやるについて奔走した石部という建具職の男」とある。/「私の家の隣りのキリスト教会」について、静男巷談「暗いクリスマス」昭和三六年がある)

時評─臼井吉見「朝日新聞」六月二六日朝刊

収録─創作集『ヤゴの分際』・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第一巻』  

  尾崎一雄氏との初対面   
「近代文学」七月号  随筆(   文末に昔の東海道線のことを書いている。「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」昭和五〇年で、東名高速バスに乗り足柄を過ぎたあたりで「私」は「不意に『ああ』と」思う。「それは五十余年前の中学生のころ、東京からの帰省と上京のたびに見て過ぎた風景なのであった」と書いている。「少年時代のこと」昭和四七年の項参照。/なお「近代文学」本号のあとがき「過般の河出書房倒産の危機により、長らく皆様方に御迷惑をおかけ申し上げておりましたが、この度東洋時論社の御好意により、幣誌『近代文学』も、七月号より再び月刊にて発行致す運びとなりました」) 

掌中果   
「群像」七月号  小説(「壜の中の水」昭和四〇年に戦争中、中隊長をやっていた黄檗宗僧侶が出てくる。本作品の主人公と同じモデルかも知れない。ただし「壜の中の水」で、その「適山の和尚さんに紹介してくれないか」とあり時間的に不具合を感じるが、「壜の中の水」がその僧侶と知り合った頃をモティーフにしていると考えれば問題はない)

合評─平林たい子・円地文子・佐多稲子「群像」八月号(「一得」昭和三九年でこの合評会のこと。「『掌中果』というたった二十枚くらいの短篇が『群像』の合評会でとりあげられたとき、平林たい子氏が、『こういう資質が現れて来たら今の作家はひとたまりもありませんよ』というような凄い発言をされ、同席の円地、佐多両氏がアッケにとられている記事が出た。これを読んだ私も仰天した」。なお創作集『愛国者たち』昭和四九年で第二回平林たい子賞を授賞)

収録─創作集『壜のなかの水』(昭和四〇年講談社。本書収録の際「ある黄檗僧の話」の副題を付記)・『藤枝静男作品集』・『藤枝静男著作集第四卷』

  阿川弘之『夜の波音』・富士正晴『游魂』・島尾敏雄『島の果て』 ─戦後を刻む短篇集  
「日本読書新聞」八月一二日号  書評 ( 単行本未収録  富士正晴と藤枝静男との関連を少しまとめておく。この『游魂』書評が二人の接点の最初であろうか、以下わかっていることを記す。富士に昭和三九年かと思われる「文炎」の藤枝作品アンケートへの回答、日本読書新聞の『空気頭』書評昭和四二年がある。昭和五〇年には「東京新聞」文芸時評の一月から六月を富士が、七月から一二月を藤枝が担当。そこで富士が藤枝の「しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機」を、藤枝が富士の「日和下駄がやってきた」「榊原敬吉郎のこと」を取り上げている。また同年、富士に藤枝の『小感軽談』書評。昭和五一年に藤枝・富士の対談「ちかごろの文学─実作者と文芸時評」。昭和五三年には梅田近代美術館で開催された「曾宮一念展」を初日に二人で訪れている。藤枝愛蔵の曾宮の油絵「虹」が出展されていた。藤枝が富士の『高浜虚子』書評昭和五四年。富士が「どこの港へつくじゃやら」昭和五七年で「藤枝静男老人」と「悲しいだけ」のこと。富士が藤枝の『虚懐』書評昭和五八年。また直接的ではないが「近代文学」昭和二七年三月号に藤枝「空気頭(初稿)」と富士「小ヴィヨン(一)」同時掲載。「近代文学」昭和三〇年一一月号に藤枝「痩我慢の説」と富士「贋・久坂葉子傅(一一)」同時掲載。そのほか書簡のやりとり─浜松市文芸館に富士から藤枝宛の葉書三葉、富士正晴記念館に藤枝から富士宛葉書一〇葉及び手紙一通がある。なお編者に「CBVIN」第一一号平成二一年の「富士正晴と藤枝静男」がある。なお富士は絵もよくするが装幀家でもある。島尾敏雄『単独旅行者』昭和二三年も富士の装幀になる。初め本体のみを入手したが、それで完本かと間違えるほど凝った表紙のデザインであった。しかしその上にしっかりデザインされたカバーもあったのであった。いささか凝り過ぎの感あり)

志賀直哉・小林秀雄両氏との初対面  
「風報」九月号  随筆 ( 前半は「批評」昭和一二年二月号「奈良の一日─志賀さんと小林さん」の改稿   文中の兵本は兵本善矩。『日本近代文学大事典』の紅野敏郎の解説によれば、明治三九年生まれ、放浪の生活を重ね昭和四二年歿。奈良在住の志賀直哉周辺に四年ごろより登場する一種性格破綻者的人物。弁舌ならびに小説にたけ、作品に「布引」「一代果て」など。広津和郎、尾崎一雄、中山義秀に兵本をモデルにした小説がある。なお『兵本善矩遺作集』紀州五條市立図書館協力会があり、藤枝は本書を「文芸時評」昭和五〇年でとりあげている )   
奈良公園幕営 ─二回目の志賀直哉氏訪問
  「風報」一〇月号  随筆(文中の本多秋五の歌を「私の愛吟抄」として「ポリタイヤ」第三号〔昭和四三年〕のアンケートに答えている。このときの写真が小堀用一郎『三人の高校生』平成一〇年にある。また頭塔の森を「芸術新潮」平成五年四月号がとりあげている。 
  異物   
「心」一○月号  小説(主人公の名前毛利は、第八高等学校同級生の毛利孝一からであろうか。藤枝に毛利の著書『幕がおりるとき』『命ふたたび』の書評がある。なお『藤枝静男著作集第六卷』のあとがき「著作集を終えて」で、「『異物』と『うじ虫』は身振りがありすぎて嫌でならなかったから」「再録には最後までこだわった」と書いている)

収録─『藤枝静男著作集第四卷』

 
  奈良の夏休み ─志賀直哉氏訪問 
「風報」一一月号  随筆(「奈良の夏休み」として  文中の室田は「聖ヨハネ教会堂」のモデル室田〔添田〕紀三郎。「素直」の座談会「志賀さんの話を聴く」〔志賀直哉・瀧井孝作・藤枝静男・島村利正〕は『夕陽』昭和三五年櫻井書店・『志賀直哉対話集』昭和四四年大和書房に収録)

志賀氏の油絵   
一一月執筆・未発表として『落第免状』  随筆(「 油絵を貰う 」と改題し

仕事中   
上同  随筆( ・『群像日本の作家 志賀直哉』平成三年  文中、志賀直哉が「批評家なんて無用の長物だ」と云ったことがでてくる。志賀は「白い線」のはじめの方でつぎのように書いている。「批評家といふものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考へるのである。さういふ批評家は作家の作品に寄生して生きてゐる。それ故、作家が批評家を無用の長物だと云ったからとて、その連中から作家を無用の長物とは云へない気の毒な存在なのだ。作家が他人の作品を批評する場合、何をいっても、云っただけの事は自身の作品で責任を負はねばならぬが、批評家は自身小説を書かず、その責任をとる事がない。批評家はさういふ自分の立場を大變都合がいいと考へて、勝手な事をいってゐるが、實はこの事が寧ろ致命的な事を知らないのだ」。志賀が「批評家なんて無用な長物だ」と言い捨てたことを「志賀直哉文学紀行」昭和四九年の最後に書いている。批評ということでは、藤枝に「群像」昭和三九年八月号の特集「もっとも印象に残った批評」の「一得」がある)

常磐松で   
上同  随筆(  清水信は「志賀直哉と藤枝静男─藤枝静男ノート1」(「作家」昭和四〇年一一月号)で「世田ヶ谷と渋谷で」「仕事中」「葉書き」の三章が藤枝静男の手元にあったことにふれている。その三章は未発表で半ペラの原稿用紙「勝見次郎用箋」に書かれていた。そして「仕事中」の題名の余白に「当時風報に連載のつもりで書いたが、内容が志賀氏を嫌がらせるだろうという尾崎一雄の判断で引っ込めた」と記してあったという。清水が引用している文章を見ると、「世田ヶ谷と渋谷で」の前半が「志賀氏の油絵」、後半が「常磐松で」に該当する。「仕事中」は「仕事中」。清水の「藤枝静男ノート1」に引用されている残る「葉書き」に該当するものは発表されていない)

小説の神様の休日   
「浜松百撰」一二月創刊号 随筆 ( 後に「静男巷談」第一回とする。「静男巷談」については、全て作品集『今ここ』平成八年刊に回数以外は初出のまま収録されている。志賀直哉が色紙に書いた「徳不孤」の出典は論語、「必有隣」と続く。京都の藤井有隣館はここから。里見?は色紙に「多情仏心」と書いたとある。「里見さんの恩」昭和五三年によればこのとき里見はもう一枚「離尚強即〔志賀兄の語を録す〕」を書いている。 編者の手元に藤枝の手になる色紙「離尚強即」がある。 

志賀氏来浜   
「風報」一二月号 随筆(「小説の神様の休日」「小説の神様の休日・れんさいその2」をあわせて改稿解題。  ・「志賀さん来浜」として ・原題で  この志賀直哉・里見小津安二郎来浜のときのスナップ写真が神谷昌志編『目でみる浜松の昭和時代』昭和六一年図書刊行会にある))

創作集『犬の血』   
昭和三二年六月一〇日  文藝春秋社刊
装  幀 三岸節子     
口繪撮影 三木 淳
帯  文 瀧井孝作(帯おもてには「正宗白鳥氏が激賞した」とある)
「北満駐屯軍に配属された、一人の見習軍医の清潔な心持が美しく描かれ、戦争の邪悪に対しての抗議がもり上がって読後感となる。殺風景な兵隊の雑事にも、端的な自然描写が実にいきいきした色彩と滋味とを加へて、うまいと思った。人物の性格もよく見抜き、よく描き分けられてゐる」
収録作品 犬の血/痩我慢の説/文平と卓と僕/龍の昇天と河童の墜落/家族歴/イペリット眼/路
あとがき 藤枝静男
(注)なお編者の手元にある署名本で、「イペリット眼」の弟が訪ねてくる場面(一八六頁〜一八七頁)で次の三カ所に赤ペンが入っている。「しかも先生の考え」を「しか 先生の考え」。「分かりやしないから。軍醫なんて」を「分かりやしないから。 軍醫なんて」。「弟は内ポケットから」を「弟は そう云いながら 内ポケットから」。他者がこうした書き込みをするとは考えられず、また筆跡も藤枝を思わせる。署名がしてあるので贈呈本であろう。贈呈に当たって気になる個所に赤ペンを入れたか。元の文は「近代文学」初出そのまま。「藤枝静男著作集」に収録されたものをみると、「しかし」以外は元のまま。

『犬の血』書評
浅見淵「東京新聞」七月一〇日夕刊・遠藤周作「日本読書新聞」七月一日号・久保田正文「図書新聞」七月二〇日号・奥野健男「週刊東京」六月に九日号・匿名「朝日新聞六月二一日朝刊・匿名「中部日本新聞」六月一六日号・匿名「サンデー毎日」六月三〇日号・匿名「週刊読売」六月三〇日号・匿名「週刊朝日」六月三〇日号・匿名「週刊サンケイ」六月三〇日号
久保田正文宛の藤枝の葉書(七月二二日付)がある。「拝啓 図書新聞の御評を拝見致し御礼申し上げます。つまらぬ作品を御親切に御読み下さった上御批評下さいまして恐れ入りました。私は以前近代文学に小説をのっけて貰ひました折、自分勝手の書き方、古臭い態度を時流に合わないと思い、平野や本多を気の毒に思った事がありましたが、その場合貴方様の小説を読んで、自分のも『之でもいい』と思い直して居りました。元気のもとになりました。その為今度の御評の署名を見て大変嬉しく感じました。厚く感謝致します。御健康を祈り上げます」。



 

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