昭和二八年(一九五三年) | 四五歳 | ||||||||||||||||||
「文平と卓と僕」を『近代文学』一月号に発表。なお本号に『近代文学』同人名簿が掲載されている。以下参考までに氏名を列記する。荒正人、安倍公房、青山光二、梅崎春生、龜島貞夫、加藤周一、久保田正文、斎藤正直、佐々木基一、島尾敏雄、椎名麟三、關根弘、高橋幸雄、高橋義孝、武田泰淳、寺田透、中村眞一郎、中田耕治、野間宏、花田清輝、原通久、埴谷雄高、日高六郎、平野謙、平田次三郎、船山馨、福永武彦、本多秋五、三島由紀夫、山室静。『近代文学』は昭和二二年、二三年と同人拡大を行い、同人ほぼ三〇名の時期を一〇年にわたって続けた。しかし昭和三一年財政的理由から拡大同人を解散、旧同人六名に復している(小田切秀雄は脱退。藤枝静男は終始同人にはならなかった)。
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昭和二九年(一九五四年) | 四六歳 | ||||||||||||||||||
二月、方寸会の仲間と図り「原勝四郎小品展」を浜松市立図書館で開催する。これにあわせて瀧井孝作来浜。なお「原勝四郎氏のこと」昭和四八年で藤枝は昭和二十八年の開催と書いているが、原勝四郎年譜やその他の資料から昭和二九年が正しい。思い違いであろう。
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昭和三〇年(一九五五年) | 四七歳 | ||||||||||||||||||
「痩我慢の説」を『近代文学』一一月号に発表。第三四回(昭和三〇年下半期)芥川賞候補作となる。このときの受賞作は石原慎太郎「太陽の季節」。選者は石川達三、井上靖、中村光夫、丹羽文雄、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二、川端康成、舟橋聖一であり、佐藤と瀧井は「痩我慢の説」を強く推した。なおこの年五月、志賀直哉渋谷区常磐松〔現在の渋谷区東一ノ一二ノ一〇〕に家を新築して移る。
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昭和三一年(一九五六年) | 四八歳 | ||||||||||||||||||
五月、「痩我慢の説」が日本文芸家協会編『昭和三〇年度後期創作代表選集』(講談社)に収録される。六月、志賀直哉が里見?、小津安二郎とともに来浜。「犬の血」を『近代文学』一二月号に発表、第三六回(昭和三一年度下半期)芥川賞候補作となる。このときは受賞作なし。結局藤枝静男は「イペリット眼」、「痩我慢の説」そしてこの「犬の血」と三回芥川賞候補となったが受賞には至らなかった。このことについて「落第坊主」昭和三四年に書いている。『浜松市民文芸』(第一集))創作部門の選者となり、以後第一六集(昭和四六年)まで続ける。
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昭和三二年(一九五七年) | 四九歳 | ||||||||||||||||||
「犬の血」が『文藝春秋』三月号に転載される。六月、瀧井孝作の尽力により処女創作集『犬の血』を文藝春秋社より刊行(このときのことを藤枝は『滝井孝作全集第四卷』月報「瀧井さん」昭和五三年に書いている)。近代文学同人が荒正人宅に集まり刊行を祝う。「雄飛号来る」を『文藝春秋』七月号に、「掌中果」を『群像』七月号に発表。八月「素直」第三集で座談会「志賀さんの話を聴く」。「異物」を『心』一〇月号に発表。一〇月、「犬の血」が『昭和三二年度前期創作代表選集』(講談社)に収録される。『浜松百撰』が一二月に創刊され寄稿。「静男巷談」として昭和三九年一二月号まで八五回の連載となる。なお浜松文芸館に瀧井孝作の藤枝静男宛の便りが一一六通あり、昭和三二年が二二通と一番多い。『犬の血』刊行に心を砕く様子がうかがえる。しかし瀧井の便りは、昭和四三年五月を最後にしている。この年一〇月、小川国夫が『アポロンの島』(私家版)刊行。
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