昭和二三年(一九四八年) 四〇歳

『三田文学』六月号に「二つの短篇((Tさん・一日─昭和三年─))を発表。本号の編集は原民喜であった。編集後記を原が書いている。このときの事情を藤枝静男は「原民喜のこと」昭和四七年で書き、『三田文学』昭和四九年一一月号のインタビューで語っている。なおこの年一月、志賀直哉熱海市稲村大洞台〔おおほらだい〕に移る。六月、太宰治入水自殺。同月「夜の会」発足(花田清輝・岡本太郎・野間宏・椎名麟三・埴谷雄高・梅崎春生・小野十三郎・中野秀人ら)。宮内淳子は平成二〇年の講演で、「近代文学」と「夜の会」の交錯が藤枝静男の私小説観に影響していないだろうかと指摘している。



二つの短篇 ( Tさん・一日─昭和三年 ─)  
「三田文学」六月号  小説(「一日」の中で北川静男の遺稿「悪魔ヨ戦カワン」〔『光美眞』収録〕をそのまま引用している。/「三田文学」昭和四九年のインタビューで藤枝静男は「そのうちの一つは確かにあとで『阿井さん』という題の小説にしました。他のも小説にしたかもわからないけれど、今の何に当るかわからない」と語っている。「あとで『阿井さん』という題の小説にし」たというのは「Tさん」である。「三田文学」の編集部は補注で「ひとつ〔注・「一日」〕は後の『春の水』になった」と記している。なお「一日」の友人が他人の若い細君が飲んだすぐ後の水口に口をつけて飲んでみせる場面、自分の精子を顕微鏡で観察する場面が「犬の血」昭和三一年で使われている。また同じく「一日」の自分の肛門を鏡に馬乗りになって眺める場面は「阿井さん」に使われている。/なおTさんのモデルは『光美眞』収録の平野謙の追悼文〔『はじめとおわり』に収録〕と「Tさん」の内容を照合すると、Kのモデル北川静男の兄北川忠之かと思われる。/この「二つの短篇」について「路」同様に本多の封書と葉書、そして平野の葉書がある。昭和二二年七月一八日の本多の手紙、「新同人はみな長い小説をもってゐるので、藤枝静男の第二作以后は今年中に〔注「近代文学」への〕掲載の見込がたたない。それで平野が『座右宝』へ『Tさん』を交渉するはずで、持ってゐる」。七月二三日の平野の葉書にも「『Tさん』を『座右宝』に持ち込もうと思ってゐるがどうだらう」とある。さらに一〇月一一日の本多の葉書、「あの小説のことは寝ながらチョイチョイ考へた。借りておけばよかったと思った」「『昭和三年』といふ但し書きが気になるネ」「『路』『Tさん』『ある一日』は同一クラスだネ」。一〇月一八日の平野の葉書、「原稿は雑誌『文芸』に『短篇ふたつ』として持ちこまうと考えている」。これら本多・平野の葉書から「一日」は、「路」などとは別に後で本多・平野に送ったもののように思われる。そして本多は「借りておけばよかった」と書いているが、平野が「Tさん」と「一日」をあわせて「短篇ふたつ」として売り込もうとしていたのを知らなかったか。そして経緯は不明だが、結局は「三田文学」に掲載された。藤枝静男は「原民喜のこと」昭和四七年で「『三田文学』から突然小説を書けと云われ『二つの短篇』という」「下手糞な作文みたいなものを差し出し二十何円かの原稿料を初めてもらった」と書いているが、実際の事情はいささか違うかと思われる。本多・平野の書簡はすべて藤枝静男から寄贈されて浜松文芸館にあるもの。ちなみに本多の葉書は三二六葉、封書は一六六通ある。/余談だが、「三田文学」本号を編者は平成二〇年四月に入手した。一〇余年探し続けてのことで、手にしたときは感激ひとしおであった。編集後記で原民喜は「短篇二つを寄せた藤枝静男氏は醫業の傍ら小説を書いてゐる人である」と簡単にコメントしている。原は昭和二一年一〇月より「三田文学」の編集に携わっていた。原の死はこの三年後であった)
    
収録─作品集『今ここ』(平成八年講談社)・『三田文学名作選』(平成一二年三田文学会)



昭和二四年(一九四九年) 四一歳

『近代文学』三月号に「イペリット眼」、同一二月号に「家族歴」を発表。「イペリット眼」が第二一回 ( 昭和二四年度上半期 ) 芥川賞候補となる。このときの受賞作は小谷剛「確證」、由起しげ子「本の話」(『文藝春秋』九月号に選評。 選者が激しくやり合っていて面白い)。

 

イペリット眼 (がん) 
「近代文学」三月号  小説(主人公「島村章」については「奈良の一日」昭和一二年 の項参照。/弟が訪ねてくる。藤枝静男の弟宣〔夫〕がモデルである。弟の解剖学教室での研究生活のこと、論文のことなどは、「私々小説」昭和四八年にある。/『衛生下士官候補生教程草案』昭和一五年にはイペリットについて次のように記している。「『イペリット』ハ液状或ハ気状ニテ皮膚ニ作用スルトキ数時間後局所ハ恰モ焦ケノ如キ観ヲ呈シ掻痒感ヲ訴エ膨張、水泡形成、表皮剥離、糜爛等ヲ来シ遂ニハ痂皮ヲ形成シ色素沈着ヲ胎シテ治癒スルモ傷害高度ナル場合ハ第二次感染ニ依ル化膿ヲ起シ弾力ナキ特有ノ瘢痕ヲ以テ治癒ス、本傷ハ一般ニ治癒ノ遅々タルヲ特徴トス〔中略〕眼ハ特ニ『イペリット』ニ対シテ感受性強ク軽症ナル場合ハ眼痛、流涙、羞明、充血等アルモ視力障害ハ来サズ重傷ナル場合ニハ強キ灼熱痛アリ、眼瞼及結膜膨張シ開眼不能トナリ角膜ニ潰瘍ヲ来ス、呼吸器ニ於テハ〔以下略〕。/平塚市海軍火薬廠共済病院時代のことを静男巷談「昭和一九年」昭和三六年で、イペリットについて「眼は心の窓か」昭和四四年で書いている。また「油絵を貰う」昭和三二年に書いている。/昭和一九年、志賀直哉宅を訪ねた藤枝は「私が勤めている工廠で糜爛性毒瓦斯イペリットが製造されている」と志賀に話す。志賀は「そんなことをして今更どうしようというのだろう」と嘆息し口をつぐむ)

時評─匿名「文学集団」五月号 

合評─中山義秀・青野季吉・荒正人「群像」七月号

収録─創作集『犬の血』・創作集『ヤゴの分際』・『現代文学の発見第十巻証言としての文学』(昭和四三年・改装再刊平成一六年學藝書林)・現代文学秀作シリーズ『凶徒津田三蔵』(昭和四六年講談社)・『戦争文学全集第五巻昭和戦後篇3』(昭和四七年毎日新聞社)・『現代日本文學大系 48 瀧井孝作・網野菊・藤枝静男集』(昭和四七年・復刊平成一二年筑摩書房)・『藤枝静男作品集』『藤枝静男著作集第四卷』(昭和五二年講談社)・『路』・『戦後占領期短篇小説コレクション4』(平成一九年藤原書店)


       











家族歴   
「近代文学」一二月号  小説(「三方低い丘にかこまれた、周囲約半里ほどの浅い池」とは藤枝市蓮華寺池がモデルである。池は藤枝作品に幾度となく登場する。/姉たち、妹弟さらには兄と父の死が語られているが、その年月年齢など現実と違うことは年譜で確かめられたい。長女一枝の風貌を「二重瞼のやや突出した大きな眼と」「ややバスに近いほどの低い柔らかな声音」と書く。「一家団欒」昭和四一年のハル姉の風貌もまた「すこしとび出したような大きな眼」「柔らかな丸みのあるなつかしい声」と書く。なお「私」はヨリ姉から「ねえ静ちゃん」と呼ばれる。/「それ以後の十三年間は、事なく過ぎた。というよりは寧ろ生活は順調であった」とある。藤枝静男の事実に照らせば、大正四年〔一九一五〕に姉はるが一七歳で死去した年から大正一五年〔一九二六〕に兄秋雄が突然喀血する間である。藤枝静男が小学校二年生から第八高等学校に入学するまでということになる。/兄の喀血から一時小康を得て、「私」が「有難し有難し」と日記に書く間の記述は、「兄の病気」昭和九年に加筆したとみることが出来よう。/兄とのことでは、「謹呈 兄上様 次郎」と表書きされた、兄の霊前にささげたのであろう勝見次郎〔藤枝静男〕の論文がいくつか残っている。/「屋敷内の数本の枇杷の木と一つの葡萄棚とが、私達の家に不幸をもたらしたものとして切り除かれた」ということでは、「空気頭」で「妻が縁起をかついで、しきりにそれを気にしていた」芭蕉の木を、妻の父が突然やって来て掘り起こす場面を思い起こす。/兄の死では「硝酸銀」昭和四一年に叔母が「白布をもちあげて兄の顔を眺め『可哀想に、女も知らずに死んでしまって。惜しいことねえ』」という場面がある。/本作「家族歴」の私は父の納骨のとき「肉親たちに実際かこまれているかのような不思議な錯覚に襲われ」る。このことでは「一家団欒」の章は「累代之墓」にたどりつく。「とうとう来た。とうとう来た」。そして墓のなかで肉親たちと会話をかわすのである。/なお本多秋五の本号編集後記「昨四八年の暮から、ぼくらは同人の原稿料を棚上げにしてきた。金の都合つき次第に支払ふといふ、その都合のつく見通しもなくなり八月からは棚上げ政策も放棄して、同人と同人外をとはず、原稿料一切なしといふことに改めた。」「率直にいって、いま『近代文学』の命運は風前の燈である。しかし、他方に『近代文学』をツブしてはいけないといふ聲」「原稿あつめに關するかぎり、ぼくらはいま不安をかんじてゐない」)

収録─創作集『犬の血』・創作集『ヤゴの分際』・『藤枝静男作品集』・『現代の文学 10 藤枝静男・秋元松代』(昭和四九年講談社)・『藤枝静男著作集第一卷』


 

昭和二五年(一九五〇年) 四二歳

四月、浜名郡積志村の妻の実家を出て、浜松市東田町二〇六番地に眼科医院を開業する(妻の実家菅原眼科の名跡を継ぐ)。「やっぱり駄目」昭和五五年に「敗戦後身を寄せていた妻の父親の病院から木造二階建ての病室一棟をゆずり受け、隣接する中都市の焼けあとの空地に移築して独立の眼科開業医となった」と書いている。「龍の昇天と河童の墜落」を『みづうみ』四月号に発表、本多秋五が認めて『近代文学』八月号に転載。六月、朝鮮戦争勃発。なおこの年、曾宮一念「虹」を描く。丸木位里・丸木俊「原爆の図」を発表、絵物語『ピカドン』は発売禁止処分となる。



龍の昇天と河童の墜落  
「みづうみ」四月号 (「近代文学」八月号に転載)  小説(藤枝所蔵の志賀直哉の油絵「ボケとラッパ水仙」の写真がカットとして添えられている。/『藤枝静男著作集第六卷』のあとがき「著作集を終えて」で「どう考えてみても小学生時代かまたはそれ以前に父から聴かされた、または寝物語り的に本か雑誌で読んでもらった童話の記憶によって書いたとしか思われなくなって」再録にはこだわったと記している「東洋ロビンソン」といった漂流奇談を書いた父鎮吉である。編者には鎮吉が寝物語に創作した話のように思われる。/なお「近代文学」八月号は第五卷第七号通巻四四号となっているが、、この年「近代文学」は三月と四月が合併号、七月号が欠刊なので第五卷第六号が正しい。終刊号の総目次で訂正されている。「近代文学」にはこうした間違いが他にもある。藤枝静男も「『近代文学賞』のこと他」昭和五二年でこのことにふれている。/「近代文学」本号の本多秋五の編集後記─「藤枝静男氏の童話『龍の昇天と河童の墜落』は、濱松の俳句雜誌『みづうみ』にいちど発表されたものだが、大變いいものだと思ふし、特殊な發表誌の關係で一般讀者の眼にはふれていないと思はれるので、作者の諒解をえて再録した」。/「かまくら春秋」平成一〇年四月号に長女章子さんが書いている。「父は毎晩話をしてくれた。日中顔を見る事もない程忙しかったが、眠るまで手を握らせ、財布に化けて恩返しをする子狸の落語など聴かせてくれた」「その頃聞いた話が発表はずっと後になっている『龍の昇天と河童の墜落』だ。私は龍が高い空へ力強く登っていく様が好きで何度もせがんだが、落ちる河童が主人公とは思わなかった。父は『これは藤枝の話だ』と言っていた」。/なお転載された「近代文学」八月号には、原民喜が詩「讃歌」を発表している)

合評─中村光夫・本多秋五・三島由紀夫「群像」一〇月号(本多秋五の藤枝宛八月一二日の葉書に「先日『群像』の合評会へ出席。『竜と河童』が問題になったので、責任上一席弁じたが、苦戦の形だった」とある)

収録─創作集『犬の血』・『藤枝静男著作集第一巻』


昭和二六年(一九五一年) 四三歳

「空気頭」の先駆的作品「空気人形」を『みづうみ』二月号から七月号にかけて連載。七月、瀧井孝作来浜、気多 川、天竜川に案内する。九月、サンフランシスコ講話条約。一一月、八王子の瀧井孝作を訪問、瀧井宅で初めて原勝四郎の絵を見て感銘を受ける(瀧井所蔵の原勝四郎作品の図版が『瀧井孝作展図録』昭和五〇年八王子市にある。ただし図録には昭和三〇年代制作とありこのとき藤枝が見た作品ではないかも知れない)。なお「近代文学」第四六号(一月発行)より編集が本多秋五から埴谷雄高にかわる。この年三月原民喜鉄道自殺、佐々木基一宅にて告別式。



空気人形 (第一回〜第六回 )  
「みづうみ」二月号〜七月号  小説(単行本未収録。参考までに「みづうみ」の編集後記から関連した箇所を紹介する。「みづうみ」二月号編集後記─「本號より連載の藤枝博士の創作は、本年の文壇での問題作だろうと某氏の言です。昨年本誌に発表された『龍の昇天と河童の墜落』が中央の『近代文學』に轉載され、それが又中央の『群像』合評會の俎上に上がりました事は皆様熟知の事です」。「みづうみ」七月号編集後記─「掲載六回に及んだ藤枝静男氏の『空気人形』は、一應これで打切る事になりました。原稿拝受に参上した節、丁度『文藝春秋』から創作依頼の封書が来て居りましたが、その方は斷わられて、一地方俳誌の『みづうみ』の為に御執筆下さった事は、本當に有難い事でした。何れ御加筆の上、中央雜誌に轉載される事と存じます」。筆者は編集人の鈴木六郎。なお「みづうみ」は原田濱人の主宰誌。鈴木は一二月号をもって「みづうみ」の編集を主宰の原田にまかせ、武者小路実篤の「新しき村」の編集を引き受けることになる。/なお主人公の「上半盲」については、藤枝静男(勝見次郎)に昭和一六年頃とみられる論文「兩眼内下方四分ノ一半盲症ノ一例」がある。ただ両眼「上半盲」という症例はこの論文には見当たらない。このことで「眼は心の窓か」昭和四四年は重要である。真横から後頭部を撃ち抜かれた兵隊が命は失わなかったものの両眼とも下半分の視野が失われた症例、高校時代陸上部の男が後ろから投げられた槍を頭に受け両方の眼が右側半分しか見えなくなった事件について記述している。黴菌が鉄砲玉と一緒に射込まれて両眼上半盲というのは藤枝の創作であろう。その他のことは「空気頭(初稿)」昭和二七年の項参照。/この「空気人形」の存在は「風信」の高柳克也氏の発見である。この発見について勝呂奏「藤枝静男作品と俳誌『みづうみ』」静岡新聞・平成五年一月二〇日夕刊が書いている。編者はデパートの古本市で、「みづうみ」の「龍の昇天と河童の墜落」及び「空気人形」一回〜六回掲載号を入手した。展示台の下に頭を突っ込み、未整理の本が詰まったダンボール箱の中から見つけた。合本であったが、編者にとっては特筆すべき収集の瞬間であった)


昭和二七年(一九五二年) 四四歳
「空気頭(初稿)」を『近代文学』三月号に発表。五月、「血のメーデー事件」。一一月、尾崎一雄を訪ねる(このときのことを「尾崎一雄氏との初対面」昭和三二年で書いている)。

  空気頭 (初稿)  
「近代文学」三月号  小説(「みづうみ」に連載した「空気人形」を加筆改題。「空気人形」と対比すると、夕焼けを眺める場面(『藤枝静男著作集第六卷』一九頁から二〇頁)、パリ子が人糞くさくなってきた後の場面(同二六頁)の加筆が目立つ。またパリ子の描写がより細やかになっているなど多々加筆があるが、全体として「空気人形」と同一作品と見るべきだろう。後出の「気頭術」、「空気頭」(「群像」昭和四二年八月号)と比べたとき、鉄砲玉と一緒に射込まれた「黴菌 Apaticoccus と Logococcus 」の存在と夕焼けを眺める場面、「インテリストリップ、エンヤ・コーラ・ショウ」の場面などが特異といえよう。主人公の「上半盲」については「空気人形」昭和二六年の項参照。/なお夕焼けを眺める場面で「アラその瞬間よだ」とある。「……だ」という表現から、その言葉には出所があると編者は感じていた。平成二〇年古書目録の小さな図版から、映画「あら!その瞬間よ」があったことを知った。調べると昭和五年封切り、監督は斉藤寅次郎である。主題歌のレコードもビクターから出ている。A面・独唱藤野豊子〔四屋文子〕伴奏日本ビクター管弦楽団/B面唄葭町二三吉〔藤本二三吉〕三味線小静・秀葉〈鳴物ピアノ入り〉、作詞松竹蒲田音楽部〔西條八十〕・作曲松下庄三郎〔中山晋平〕。B面の藤本二三吉の歌はビクターから発売のCD『昭和を飾った名歌手5』で現在聞くことができる。A面の四屋については品切れで今のところ歌詞を確認できない。このことでは『或る年の夏』昭和四五年の項参照。斉藤寅次郎は生涯二〇七本の映画を監督、喜劇の神様といわれた。戦後は美空ひばりの映画もてがけている。「男はつらいよ」の車寅次郎は、この斉藤寅次郎に由来する。「アラその瞬間よ」B面の藤本二三吉の歌詞を以下紹介する。「燃える思いをうち明けられて 乙女ごころの恥ずかしさ 胸は高波 顔には紅葉 アラその瞬間よ 指のリングを抱くばかり/毒なお酒と知りつつ飲んで つらい浮世を泣き寝入り 風邪をひくよと起こしたあなた アラその瞬間よ ぞっと身にしむ恋の風/写真顔では理想のお方 晴れて見合いの恥ずかしさ お茶をすすめてこっそり見れば アラその瞬間よ これはあきれたヤブにらみ/思い暮らせばみじかい一日 いつか夜となる恋の空 星が流れるあれ尾を引いて アラその瞬間よ 遠い人故なお恋し」。「アラその瞬間よ」は当時流行語となった。/「神田の蘭房というカフェ」が出てくる。このことでは「埴谷氏のこと」昭和四六年に「私がはじめて氏に会ったのは『近代文学』創刊からいくらもたっていない頃の『蘭房』という喫茶店においてであった」とある。また本多秋五年譜の昭和二三年に「九月、神田神保町にある『らんぼお』の旧画廊に事務所を移転する」とある。/義眼の傷痍軍人のことでは「追憶」昭和四九年の項参照。/「著作集を終えて」で藤枝は「空気頭(初稿)」はモティーフが全く未熟であったから」再録にはこだわったと書き、続けて佐々木基一「停まれる時の合間に」の一場面を「空気頭」で使ったとしてその冒頭部分を引き写している。/「穢医穢」の三文字、印度の魔法使いの実験、人糞からの妙薬、変な雑誌「瓜茄」などについては「空気頭」昭和四二年の項参照。/本作の「近代文学」掲載について本多の封書・葉書がある。昭和二六年七月一四日の封書、「小説は平野が読み僕が読んだ結果、さっそく『文学界』へとどけよう、佐々木君へはあとから断りをいえば十分だから、といふことに一決。けふ文春社へ持参して置いてきた」「作品は前のときよりよく解った」「ただあの風呂場ショウのところはいかにも道具立てが貧寒で」云々。一一月二八日の葉書、「この間平野に会ったら例の作品は文芸へ持ち込んだが返してきたといっていた。金にならなくて僕らとしても目算狂ってまことに残念。また無力で汗顔の至り。近代文学へまわす外ない」。「空気頭」初稿は初め「近代文学」のために書かれたが、平野と本多の判断で稿料が貰える「文学界」に売り込もうとしたが駄目で、「文芸」に働きかけだがこれも駄目で、結局「近代文学」での発表になったことがわかる。「近代文学」は稿料なしであった。「家族歴」昭和二四年の項参照)

収録─『藤枝静男著作集第六卷』(昭和五二年講談社)本書収録に際し(初稿)と付記。「近代文学」初出には勿論、(初稿)の付記はない。



    
これでもいい   
「南苑集」第三号 ( 一一月二〇日 )   随筆 ( 本誌は浜松の小児科医平野多賀治編集発行のA5版四頁の小誌である。これを改稿し「風報」昭和三二年三月号。  単行本未収録。 なおまったく関係ないと思うが「近代文学」昭和二四年一〇月号に島尾敏雄が随筆「これでもない」を書いている)



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