昭和三年(一九二八年) 二〇歳

二年に進級。「校友会雑誌」に初めての小説「兄の病気」及び詩「冬の朝」発表。八月二日、奈良市幸町に初めて志賀直哉を訪ねる。丁度来訪中の小林秀雄、瀧井孝作を識る(「瀧井さんのこと」昭和六〇年の項参照)。一一月二日から五日にかけて、平野謙、本多秋五を誘って奈良にキャンプ旅行。再び志賀直哉を訪ねる。この頃からマルクス主義運動の波が地方高校にも押し寄せてきて、精神的動揺を受ける。志賀直哉訪問について藤枝静男は「志賀直哉・小林秀雄両氏との初対面」「奈良公園幕営」「奈良の夏休み」「奈良の野猿」(『藤枝静男著作集第一巻』収録)などに書いている。

追記/平成二一年六月開催の「藤枝静男文学の魅力」藤枝市文学館において、「校友会雑誌」第五五号(創立二十周年記念号)昭和三年五月三〇日発行で藤枝静男が「よくある事」(小品)を書いていることを知る。

 

よくある事 
「校友会雑誌」第五五号─創立二十周年記念号(五月)第八高等学校校友会雑誌部  小品(年譜の追記にあるように平成二一年六月開催の「藤枝静男文学の魅力」藤枝市文学館でこの作品の存在を知る。本展を企画した澤本行央氏は本作を含め「校友会雑誌」の藤枝静男作品の存在については豊田市中央図書館/本多兄弟文庫所蔵の同誌によって以前より承知していた。なお本号には本多秋五の作品「動揺時代」も掲載されている。目次に本多の作品は括弧で(小説)とあり、藤枝の本作は括弧で(小品)となっている。(小品)としたのは短くもあり習作という思いがあってか。読めば小説というしかないが、ここでは曖昧にそのまま(小品)としておく。主人公の名前はこのあとの「兄の病気」の主人公と同じ「唐須」である。これはいま気付いたのだが、「唐須」は「カラス」である。平野謙が藤枝のことを話題にすると、本多が「ああ、あの烏みたいな男か」と応じたことが「青春愚談」にある。 単行本未収録)

兄の病気 
「校友会雑誌」第五七号(七月)第八高等学校校友会雑誌部   小説(筆名は勝見二郎。本作の発見の経緯は「考える事」「奈良行き」に同じ。藤枝静男の最初の小説ということになる。大正一五年の兄喀血をモティーフにしている。昭和九年千葉医科大学文芸部誌に発表した「兄の病気」は、いくつか書き換えはあるものの本稿とほぼ同文である。発見が早かった大学時代のものは、本稿の改稿とわかった。単行本未収録。この小説「兄の病気」、そして本稿を改稿した大学時代の「兄の病気」、同じく大学時代の小説「思ひ出」(昭和八年)の存在について、藤枝静男は生前語っていないことを付記しておく。「考える事」「奈良行き」「兄の病気」「冬の朝」の発見について、「藤枝文学舎ニュース第六七号」平成二一年一月の青木鐵夫「発見─高校時代の作品四篇」がある。なお前記「一覧」で本号に小説「小さな追憶」平野朗〈謙〉、「涼風夜話」河村直) 

冬の朝  
「校友会雑誌」第五七号(七月)第八高等学校校友会雑誌部   詩(筆名は勝見二郎。「青春愚談」に引用されている詩だが、前記の「考える事」「奈良行き」「兄の病気」を発見するなかで、この詩が同じく「校友会雑誌」に発表されたものであることを知る。「青春愚談」のものと比べると、表記がひらがなであったり漢字であったりの違いはあるが同文。なお前記「一覧」で昭和三年度「校友会雑誌」委員として本多秋五、平野朗(謙)の名がある。平野は昭和四年度も委員。「青春愚談」によれば、藤枝が委員になることを担当の教授が忌避した)

 

昭和四年(一九二九年)
二一歳
三年に進級、北川静男が落第し再び同級となる。「私の学校は成績順に前からならばせる規則があったから、最劣等生の私と落第生の北川とは最前列に文字通り机をならべた」と「平野断片」に書いている。四月、本多秋五が東京帝国大学文学部国文学科に入学。なおこの年四月、志賀直哉新築した奈良市上高畑の家に移る。一二月、岸田劉生尿毒症のため死去、享年三八歳。藤枝静男は岸田劉生の講演を聴いている。



左より勝見次郎(藤枝静男)、平野朗(平野謙)、本多秋五ー  昭和4年2月撮影
昭和五年(一九三〇年) 二二歳
二月、北川静男が腸チフスで死去。後年『近代文学』に「路」を発表する際、本多秋五により筆名を「藤枝静男」とされるが、北川静男に由来する。三月、第八高等学校を卒業。千葉医科大学を受験したが失敗し、名古屋で浪人生活。平野謙は東京帝国大学文学部社会学科に進学(八年三月中退し、一二年四月に美学科へ再入学)。七月三日から一一日まで奈良の日吉館に止宿して一日おきに志賀直哉を訪ねる。平野謙と奈良・京都旅行し、帰途愛知県挙母町で氷屋をやっていた本多秋五を訪ねる。北川静男の遺稿集『光美眞』を編集、一二月に刊行。『光美眞』に一文「四年間」を寄せる。弔辞「敬愛する北川静男君」「後記」も藤枝静男の手になる。平野謙が一二月、帰省途中に藤枝静男の下宿に立ち寄り、上京して勉強することを勧める。なおこの年二月、瀧井孝作奈良を去り八王子へ移る.



四年間
 『光美眞』一二月二〇日  追悼(筆名は勝見二郎   「決まって一緒に桃源でチャーハンを食べた」とある。このことでは静男巷談「日記」昭和三六年に「妻を連れ出して炒飯を食べ」る。また「食物のこと」昭和四三年で平野にまたチャーハンかと冷やかされる。/岸田劉生個展と講演のことがあるが、「内なる美」昭和五一年、「劉生の小説その他」昭和五四年で書いている。/『光美眞』には平野朗〔謙〕、本多秋五、室田紀三郎、毛利孝一も追悼文を書いている。河村直は小説二篇─河村本人と北川、勝見〔藤枝〕を主人公にした「三人」、北川の入院を題材にした「菜の花を貰う」─を寄せている。 なお『光美眞』は平成五年北川の親族の手により、復刻刊行されている。編者はこの復刻版を安達章子氏よりいただく)

敬愛する北川静男君   
上同  弔辞(後記で「弔辞、『友人一同』と云ふことは僕の獨斷で書た」とある。 

後記   
『光美眞』  後記(筆名は勝見 単行本未収録  後記の最後の部分を以下引用する。「此の本が出来上がれば今も生前通りにしてある北川の部屋は片付けられて了ふ。するともう我々はあの科學實験の装置も、又窓から、紫陽花のまじった木立や、窓の下に竝で置き去りになってゐる植木鉢も見ることが出来なくなって了ふ。/自分は此頃になって、ますます北川に對する執着がひどくなって来た。よい景色、立派な藝術品を見、又少しでも進歩を自覺する様な時、金が少しある場合等には自分はただただ一緒に喜び、何か食ひ、話をしたくてならぬ。/十月十二日夜、北川の部屋で黄色い表紙のドイツ單語五千語の表紙裏に紫鉛筆で 大事を前に何たることぞ と書てあるのを見付けたが本文にはもう入れられなかった。これは入院の日か、少なくとも一日或は二日前に病床で書たものであろう。入學試験準備のために最後迄紫鉛筆で單語の下に記しを附けてゐた。それを思ふと涙がでる。/何かやらねば死でも死に切れぬ。  十月十九日 勝見記」)


昭和六年(一九三一年) 二三歳
二月、父鎭吉宛の平野謙の手紙により上京を許され、東京本郷森川町大正門前の下宿双葉館三階の平野の部屋に同居する。藤枝は「社会学科在学の平野、国文学科在学の本多と旧交を暖めるようになったが、すでに左翼運動という別の世界に脚を踏み入れていた二人と全面積をもって交流することは不可能になっていた」と自筆年譜に書いている。三月、千葉医科大学を受験するも再び失敗。四月、妹きくが肺結核で喀血し療養生活に入る。五月ころ、平野謙を誘い小林秀雄を訪ねる。本郷蓬莱町、高円寺、深川同潤会アパートと下宿を移る。雑誌 < 経済往来 > の六号記事を書いたり、小石川の印刷所の校正をする。なおこの年一一月、小林多喜二が志賀直哉宅を訪ね一泊している。



(注)
「経済往来」の六号記事について補足する。「或る年の冬 或る年の夏」に「××往来」「尖端科学」とあり、種本に「潜水艦から乗員を救出する新兵器」「ゴム製の飛行機」などがあったとある。編者の手元にある当時の「経済往来」を見ると「センタン科學」と題する六号記事欄がある。そのなかに「ゴム製グライダー」「潜水艦救助器」といった記事もあり、藤枝が生活費のため本欄を担当した可能性は高い。



昭和七年(一九三二年) 二四歳
四月、千葉医科大学に入学.千葉海岸に住む。五月、五・一五事件。父鎮吉の次郎(藤枝静男)宛の手紙がある。多くは送金の知らせだが、送金の細かな内訳、そして薬や下着を同封し「感冒ハ大敵ナリ専ラ胃腸ノ強健皮膚ノ強健ヲ第一トス」と諭している。なおこの年三月、本多秋五は東京帝国大学文学部国文学科を卒業、大学院に進む。「当時は不況で、文学士の就職先は極度に少なく、大学院は就職待機生のたまり場の観があった。本多の場合は、東京に居残るための口実であった」と本多の年譜にある。なおこの年三月、埴谷雄高逮捕され豊多摩刑務所へ送られる。


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